フランスの地政学06:1812-1814第六次対仏大同盟
ひきつづきフランスの地政学としての第六次対仏大同盟を学ぶ。今回はロシア遠征に端を発するフランス第一帝政の崩壊を学習する。最初にクールにザックリまとめる。
1812年[US036]Napoléonはイギリスとの貿易を再開したロシアに遠征するも焦土作戦により撃退される。一方、ロシアはイギリスとエレブルー条約を締結して和解しており、これに1813年[US037]プロイセンが参加。第六次対仏大同盟に発展して行く。Napoléonもリュッツェンの戦いやバウツェンの戦いでロシア・プロイセン連合軍に勝利しオーストリアの仲介で休戦協定が結ばれたが、講和会議は決裂。オーストリア、スウェーデンもフランスに宣戦布告する。ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍はグロスベーレンの戦い、デネヴィッツの戦い、カッツバッハの戦い等に勝利。Napoléonはドレスデンの戦いに勝利するも追撃に失敗して戦力を失う。Napoléonはライプツィヒの戦いに敗北してフランスへ撤退する。東からの攻勢に加え、南からもイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がフランスに侵攻、パリは陥落した。パリ陥落によりライン同盟は解体された。フォンテーヌブロー条約によりNapoléonは退位しエルバ島に追放。フランス王政が復古した。
またしてもロシアである、とSynmeは思う。第一次世界大戦も第二次世界大戦もそうだったが、ナポレオン戦争においてもフランス第一帝政崩壊の転機をもたらしたのは多大な犠牲を払ったロシアの勝利であった。
1810年[US034]ロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開した。フランス第一帝政は大陸封鎖令に留まる様に説得を続けるがロシアは拒絶。1812年[US036] Napoléonはロシア遠征を決定する。
この間のロシアの外交が重要である。1807年[US031]7月7日ロシアはフランスとティルジットの和約を結んで対仏大同盟を離脱。フランスと協調関係を築き、イギリスと対立して英露戦争(1807年[US031]9月〜1812年[US036]7月18日)及び第2次ロシア・スウェーデン戦争(フィンランド戦争、1808年[US032]2月〜1809年[US033]9月)を戦っていた。しかし、1812年[US036]4月にイギリス、ロシア、スウェーデンは対Napoléonの秘密協定を結ぶ。そして、7月18日にイギリスとロシア、スウェーデンはエレブルー条約を締結して和解。これが第六次対仏大同盟(1812年[US036]7月18日〜1814年[US038]4月16日)の礎となる。
さて、1812年[US036]6月23日にロシア進攻は始まった。国境付近でのロシア軍殲滅を狙うNapoléonに対し、ロシアは焦土作戦でフランス第一帝政に立ち向かったが、これはポルトガルで功を奏した戦略の継承でもあった。
具体的には、スモレンスクの戦い(8月16日〜18日)にフランスは勝利するものの、ロシアは街を焼き払った上で戦略的に撤退。ボロジノの戦い(9月7日)もフランスが勝利し、モスクワ入城を果たすが、ロシアは首都モスクワさえ焼き払って戦略的に撤退して陸軍を温存してフランスからの和平交渉を拒絶し続けた。10月19日物資の補給を断念せざるを得なかったNapoléonは撤退を開始した。
一方、10月23日にはフランス国内でクーデター勃発。11月6日ナポレオンはクーデターを知り、12月5日軍を置いて先に帰国。12月14日ロシアに攻め入った軍隊は駆逐された。ロシアは焦土作戦で祖国を守った上に、半島戦争で傷ついていたNapoléonの不敗神話を打ち破ったのである。
1813年[US037]2月27日プロイセンはフランスとの同盟を破棄して第六次対仏大同盟に参加した。リュッツェンの戦い(5月2日)でNapoléonはロシアの奇襲に反攻・撃退し、バウツェンの戦い(5月20日-21日)でロシア・プロイセン連合軍にも勝利したが、決定的勝利ではなかった。6月4日ナポレオンへ皇后マリー・ルイーズを嫁がせていたオーストリアの仲介で休戦協定が結ばれた。
この頃、半島戦争でもフランス第一帝政は苦境を迎えていた。イギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がビトリアの戦い(6月21日)をはじめとして、各所でフランス軍を撃破し、フランス本土へと北上しつつあったのだ。
7月29日プラハでフランスとロシア及びプロイセンの講和会議が開催されたが決裂。8月10日に休戦期間は終了し、翌11日オーストリアもフランスへ宣戦布告した。7月にはスウェーデンも第六次対仏大同盟に参加していた。
ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍はトラーヒェンブルク・プランを採用し、ナポレオン本隊との正面衝突を避け、部下の部隊との会戦を志向する戦略を取った。北方では、スウェーデン軍がグロスベーレンの戦い(8月23日)に勝利。更にデネヴィッツの戦い(9月6日)にも勝利した。東方では、プロイセン軍がカッツバッハの戦い(8月26日)に勝利した。南方では、Napoléonがドレスデンの戦い(8月26日〜27日)でオーストリア・ロシア連合軍に勝利したが、追撃に失敗して(クルムの戦い(8月29日〜30日))戦力を失って行った。10月にはフランスの長年の同盟国であったバイエルン王国までもが離反した。追い込まれたNapoléonは西方へ撤退してライプツィヒの戦い(諸国民の戦い、10月16日〜19日)に臨んだが敗退。フランスへの撤退を余儀なくされた。
東からはロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍が、南からはスペインを制圧したイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がピレネー山脈を越えた。1813年[US037]12月2日連合軍がアムステルダムへ入城。Napoléonは局地的な戦闘(六日間の戦役(1814年[US038]2月10日〜14日)など)でたびたび勝利を収めたが劣勢は覆らず、アルシー・シュール・オーブの戦いなどで敗北。3月30日連合軍は首都パリへの攻撃を開始。翌31日パリに入城した。
フランス臨時政府は停戦のためにNapoléonの退位を決議。1814年[US038]4月11日フォンテーヌブロー条約が合意に達しナポレオンが退位、4月16日に締結された。退位したNapoléonはエルバ島を隠居地とし、近衛隊と共に隠棲することに決まり、事実上のフランス追放となった。その引き換えに200万フランの年金がフランス政府から送金されると約束され、皇后マリー・ルイーズと息子のナポレオン2世にはパルマ侯国の統治者の地位が与えられて、後に同島に赴くことも約束された。
フランス上院の議決により、フランス革命以来亡命していたブルボン家のルイ18世が帰還して即位し、王政復古がなされた。
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ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い、10月16日〜19日)がナポレオン戦争における最大の戦闘であった。19万のフランス軍に対して36万の連合軍が包囲攻撃、フランス軍は戦死4万捕虜3万を出して敗走した。
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1814年[US038]5月30日に第1次パリ条約が締結され、同盟国とフランス臨時政府の間で講和が成立した。イギリスのヘルゴランド島(Heligoland - Wikipedia) 領有もこの条約で承認された。
文責:鵄士縦七