Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

オーストリアの歴史07:1913.6.29-8.10第2次バルカン戦争

1913年[US137]6月29日ブルガリアがセルビアとギリシアを攻撃して第2次バルカン戦争が勃発した。モンテネグロ、ルーマニア、オスマン帝国も介入し、ルーマニア軍が首都ソフィアに迫るとブルガリアが敗北した。8月10日にはルーマニア、セルビア、ギリシア、モンテネグロとブカレスト条約を締結して、南ドブルジャをルーマニアに割譲し、マケドニアをセルビア、ギリシア、ブルガリアで三分割することを承認した。別途コンスタンティノープル条約を締結してエディルネをオスマン帝国に割譲した。 

オーストリアの地政学として、第2次バルカン戦争を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

セルビアは、第2次バルカン戦争に勝利して国力を増大させ、かつ、北マケドニアを獲得してボスニア・ヘルツェゴビナに対する領土的野心を露わにした。オーストリア=ハンガリー二重帝国は、なんら有効な手立てを講ずることもできずにセルビアという強力な敵と対立することになってしまった。

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まあ戦略なき外交というのは、こんなものかもしれない。

セルビア攻略の橋頭堡とすべく、1908年[US132]10月6日ボスニア・ヘルツェゴビナを併合したオーストリア=ハンガリー二重帝国であったが、セルビアの反感を買い、仕方がないとは言えロシアを嵌める様な結果を招き(ボスポラス海峡及びダーダネルス海峡の通航権を保障してロシアからボスニア・ヘルツェゴビナ併合の承認を得たが、イギリスとフランスが承認しなかった)、結果としてセルビアとロシアを結びつけてしまった。

ロシアの警戒心を呼び起こしてしまった結果、1912年[US136]3月から10月にかけて、ロシアの主導でバルカン同盟が結成され、第1次バルカン戦争と第2次バルカン戦争が勃発した結果、セルビアが領土も人口も倍増させた上に、セルビアの拡張主義の矛先を改めてボスニア・ヘルツェゴビナに向ける事態を招いてしまった。

それもこれも、三国協商を締結したのだから、イギリスもフランスも、ボスポラス海峡及びダーダネルス海峡の通航権をロシアに許す筈である、という不確かなインテリジェンスであった。インテリジェンス能力の低さ、外交力のなさ、がこの外交的失策を招いたことは、ニッポンも反面教師として学ぶところがあるかもしれない。

 

文責:鵄士縦七