Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

イタリアの地政学14:1915.4.26ロンドン条約の締結

イタリアの地政学を学ぶ。今回はイタリアと連合国とのロンドン条約の締結。最初に、クールにザックリまとめる。

1915年[US139]4月26日イタリア王国は三国協商(イギリス、ロシア、フランス第三共和政)はロンドン条約(1915年)を秘密裏に締結し、未回収のイタリアの譲渡を約束して、イタリア王国の連合国側での第一次世界大戦参戦を合意した。 

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1861年[US085]3月17日に成立したイタリア王国(〜1946年[US170]6月2日)には、Risorgimento達成に向けての宿題があった。すなわち未回収のイタリア(Italia irredenta) である。

そして、イタリア王国は一歩ずつ宿題をこなして行く。

まず、普墺戦争(1866年[US090]6月7日〜8月23日)にプロイセン・イタリア連合軍として勝利し、ウィーン条約(1866年[US090]10月12日)を締結してヴェーネト地方を回復した(形式的にはオーストリアがヴェーネト地方をフランス第二帝政に割譲、そのままフランス第二帝政からイタリア王国に割譲)。プロイセンのおかげで、ヴェーネト地方をオーストリアから取り戻したのである。

次に、普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日) が勃発すると、フランス第二帝政はローマに駐留していたフランス軍を引き揚げた。9月2日に9月2日Napoléon IIIが捕虜となると、9月20日イタリア王国はローマを占領し、10月9日に併合した。またしてもプロイセンのおかげで、ローマをフランスから取り戻したのである。

一転して、1882年[US106]5月12日にフランス第三共和政がチュニジアを保護国化すると、20日イタリア王国はドイツ第二帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国の軍事同盟に加わり、三国同盟(〜1915年[US139])を形成した。フランスを警戒して、一旦は宿題を棚上げして、ドイツ(プロイセン)とオーストリアに擦り寄ったのである。

更に、1902年[US126]イタリア王国は秘密裏にフランス第三共和政と仏伊協商を締結し、三国同盟に関わらず、ドイツ第二帝国がフランス第三共和政を攻撃する際にはイタリアは参戦しないことを約した。併せて、フランスのモロッコでの権益とイタリアのトリポリタニアの権益を相互に承認した。北アフリカでもフランスと隣国となったことで、フランスへの警戒感が薄れ、棚上げしていた宿題を思い出して、ドイツ(プロイセン)とオーストリアには黙って、フランスに擦り寄ったのである。

で、1915年[US139]4月26日イタリア王国は宿題を仕上げることに決め、イギリス、ロシア、フランス第三共和政とロンドン条約(1915年)を秘密裏に締結し、未回収のイタリア、すなわち南ティロル地方、トレンティーノ地方、トリエステ、イストリア地方、フィウーメ、ダルマツィア地方などの地域の譲渡の確約を得た。

10−20年ごとの華麗な外交である。素晴らしい。一方で、イタリア外交は信用ならないと見做して間違いない。 

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Treaty of London (1915) - Wikipedia

ロンドン条約 (1915年) - Wikipedia

World War I - Wikipedia

第一次世界大戦 - Wikipedia

第一次世界大戦の年表 - Wikipedia

 

文責:鵄士縦七