Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学11:1807-1812英露戦争

ひきつづきロシアの地政学を学ぶ。今回は英露戦争をロシアの観点から学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

ティルジットの和約によりフランスと協調したロシアは1807年[US031]イギリスに宣戦布告し、英露戦争が勃発。デンマークスウェーデン、イラン、トルコ等でイギリスと対立した。Napoléonのロシア遠征に対抗するため1812年[US036]エレブルー条約でロシアはイギリスと講和した。

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Yekaterina II亡き後、ロシアとイギリスの関係は同盟と対立を繰り返してきた。ロシアは、第二次対仏大同盟でイギリスと同盟したが、第2次武装中立同盟でイギリスと対立。第三次対仏大同盟、第四次対仏大同盟でイギリスと同盟したが、オーストリアプロイセンという陸戦のパートナーがフランス第一帝政に敗北する中、ティルジットの和約によりフランスと協調することを選び、イギリスと対立することとなった。 

ナポレオン戦争(1803年[US027]5月16日〜1815年[US039]11月20日)において、デンマークは中立の立場を保っていた。しかし、1807年[US031]9月デンマーク海軍に対してイギリス海軍が攻撃すると、ロシアはイギリスに対して宣戦を布告し、英露戦争(1807年[US031]9月〜1812年[US036]7月18日)が勃発した。 

ヨーロッパにおいては、イギリス、スウェーデンとロシア、デンマークノルウェーという同盟同士の戦いであった。結果的に、1809年[US033]以降デンマークフランス第一帝政の同盟国としてナポレオン戦争終結まで戦うことになる。

バトルフィールドは、スウェーデン(第2次ロシア・スウェーデン戦争(フィンランド戦争、1808年[US032]2月〜1809年[US033]9月))、イラン(第1次イラン・ロシア戦争(1804年[US028]〜1813年[US037]10月24日))、トルコ(1806-1812ロシア・トルコ戦争(1806年[US030]〜1812年[US036]5月28日))と多地域にわたり、地中海からの回航中のロシア艦隊が、イギリス海軍リスボンで拿捕され、英露戦争終結までポーツマスで拘禁されることもあった。基本的に、ロシアは陸戦に勝利し、イギリスは海戦に勝利すると言う展開で散発的な戦闘が継続した。

しかし、ロシアとフランスとの協調関係も長続きはせず、1810年[US034]ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開した。

1812年[US036]4月ロシアはイギリス、スウェーデンと3国間の対ナポレオンの秘密協定を結んだ。同年6月にNapoléonのロシア遠征1812年[US036]6月22日〜12月14日)が開始されると、英露両国は7月18日に正式な講和条約であるエレブルー条約を締結した。

ニッポンが学ぶべきは、このロシアの外交だとSynmeは思う。フランスと協調したまま、かつ、イギリスと戦争を続けたまま、ロシアはイギリスと貿易を再開。再開後数年でスウェーデンも引き入れて秘密裏にイギリスと和解しておき、フランスが侵攻して来ると1ヶ月も経たない間にイギリスとの正式講和を発表、結果的にナポレオン戦争戦勝国に名を連ねることになるのだ。

よく何でもかんでも態度をはっきりしたがる人がいるが、主権国家の外交上は態度を鮮明に打ち出すべき時と、態度は曖昧なまま実質的な外交交渉をすべき時の両方があるのだ。

Synmeは不勉強で詳細を知らないが、イギリスとの講和だって、貿易→秘密協定→講和という3ステップを踏んでいるから成り立つのであろうし、イギリスと貿易を再開してもNapoléonが侵攻してくるまでに2年と言う歳月がかかっているのだからイギリスとの貿易再開=フランスと開戦ではないのである。

 

文責:鵄士縦七

ロシアの地政学10:1806-1807第四次対仏大同盟

ひきつづきロシアの地政学を学ぶ。今回は第四次対仏大同盟をロシアの観点から学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 

ロシアは第四次対仏大同盟(1806年[US030]〜1807年[US031])に参加し、プロイセンと共にフランスと戦った。ロシア・プロイセン連合軍はアイラウの戦いで敗れ、ロシアもフリートラントの戦いで大敗。ロシアはティルジットの和約で講和してフランスと協調することとなる。 

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Yekaterina II亡き後、まず第二次対仏大同盟でイギリスと同盟、次に第2次武装中立同盟でイギリスと対立したロシア、第三次対仏大同盟に続いて、第四次対仏大同盟(1806年[US030]10月6日〜1807年[US031]7月7日)にも参加してイギリスと同盟する。

ロシアの今回の陸戦のパートナーはプロイセン、フィールドは東プロイセンである。頼りにならないパートナーと、より自国領土に近接したバトルフィールドで、Napoléon Bonaparteと戦う。ロシアにとって最初から今回は少し様相が異なるという戦いだったのではないかとSynmeは思う。

フランス軍に宣戦布告して数週間も経たずに敗れたプロイセン王が東プロイセンに逃れて来ると、Napoléonはこれを追ってポーランドに侵攻した。10万の援軍を東プロイセンへ集結させていたロシアは、ロシア・プロイセン連合軍としてアイラウの戦い(1807年[US031]2月7日〜8日)を戦うが惜敗。

再編成を終えたロシアはハイルスベルクの戦い(1807年[US031]6月10日)に勝利するが、フリートラントの戦い(1807年[US031]6月14日)で大敗した。

ロシアは ティルジットの和約(1807年[US031]7月7日)でフランス第一帝政と講和するが、Yekaterina IIが分割したポーランドの一部(プロイセンオーストリアの支配地域の一部)がワルシャワ公国としてフランスの衛星国として独立を回復した。

この条約によりロシアはフランスと協調関係を成立させた。ロシアは第四次対仏大同盟から離脱し、対イギリスの経済封鎖である大陸封鎖令に参加。また、ロシアがイギリスへ宣戦することが確認された。スウェーデンに対しては、大陸封鎖令に参加させるためにロシアが圧力をかけることとされた。

Synmeはロシアの地政学の中でそれぞれ1807-1812英露戦争、1808-1809第2次ロシア・スウェーデン戦争として次回、次々回で学習する。

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synme.hatenablog.com

1806年[US030]ライン同盟が成立すると、プロイセンは第四次対仏大同盟を成立させた。フランスは、プロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデンの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。フランスはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに勝利してベルリンを制圧、プロイセン王は東プロイセンへ逃れた。フランスもポーランドに進軍、1807年[US031]アイラウの戦いでフランスはロシアを撤退させて辛勝、フリートラントの戦いでロシアに大勝、臨時首都ケーニヒスベルクを占領した。フランスとロシア、プロイセンは、それぞれティルジットの和約で講和。プロイセンは完全に敗北していたので、フランスとロシアの講和をもって第4次対仏大同盟は崩壊した。エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。一方、この条約によりフランスとロシアとの間には協調関係が成立した。 

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1795年[US019]、ロシア、プロイセン及びオーストリアの3国がポーランドポーランド・リトアニア共和国)の全領土を分割(第3次ポーランド分割)してしまった。 

 

文責:鵄士縦七

 

ロシアの地政学09:1805-1806第三次対仏大同盟

ひきつづきロシアの地政学を学ぶ。今回は第三次対仏大同盟をロシアの観点から学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 

ロシアは第三次対仏大同盟(1805年[US029]〜1806年[US030])に参加し、オーストリアと共にバイエルンに侵攻してミュンヘンを陥落させた。ロシアはウルム戦役でフランスに敗れたオーストリアの残存部隊と合流してアウステルリッツの戦い(1805年[US029])を戦ったが、フランスに敗北して敗走した。

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Yekaterina II亡き後、まず第二次対仏大同盟でイギリスと同盟、次に第2次武装中立同盟でイギリスと対立したロシア、第三次対仏大同盟には参加して再びイギリスと同盟する。

イギリス本土への侵攻作戦を計画していたフランス第一帝政の隙を突いてオーストリアバイエルンに侵攻。ロシアもこれに続いてバイエルンに侵攻し、協同してミュンヘンを陥落させた。

しかし、ウルム戦役(1805年[US029]9月25日〜10月20日)でオーストリアは不意を突かれてフランスに敗北し、ウィーン入城(11月14日)を許してしまう。

12月、ロシアはオーストリア残存部隊と合流してフランスに対して開戦(アウステルリッツの戦い(1805年[US029]12月2日))するが、 フランス軍に中央突破されると、散り散りになって敗走した。

イギリス及びオーストリアに呼応して遠征するも、Alexander Suvorovを失ったロシアはNapoléon Bonaparteに敗北。第二次対仏大同盟の時も今回も、なんとも淡泊な結果となるが、フランスとしてもロシアを追撃する体力・余裕はないということだとSynmeは思う。

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1803年[US027]イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスへ宣戦布告。ナポレオン戦争が勃発した。フランス第一帝政のイギリス侵攻計画に対抗して、1805年[US029]イギリスは第三次対仏大同盟を結成。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、ナポリスウェーデンの5ヶ国連合軍と戦うこととなった。トラファルガーの海戦においてフランス・スペイン連合艦隊がイギリス艦隊に敗北するも、Napoléonはウルム戦役でオーストリア軍に勝利し、アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍に勝利。プレスブルクの和約により、オーストリアはフランスにイストリアとダルマチアを割譲、イタリア王国を承認して同国にヴェネツィアを割譲した。1806年[US030]にフランス軍ナポリ王国を征服。第三次対仏大同盟はイギリス、ロシア、スウェーデンの3ヶ国のみになってしまった。 

 

文責:鵄士縦七

ロシアの地政学08:1800-1801第2次武装中立同盟

ロシアの地政学、今回はWikipedia第2次武装中立同盟を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

イギリスがマルタ島に軍を駐在させたことに対抗して、ロシアは デンマーク スウェーデンプロイセンと共に第2次武装中立同盟(1800年[US024]〜1801年[US025])を結成して、フランスと自由貿易を行った。コペンハーゲンの海戦(1801年 [US025])デンマークがイギリスに敗北し、同盟は破綻した。

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Yekaterina II亡き後、まずイギリスと同盟したロシアだったが、同盟国であるにもかかわらずイギリスに対抗。フランスと自由貿易を始めてしまう。

まずはマルタ島の話。第二次対仏大同盟の契機にもなったエジプト遠征の途中、1798年[US022]にNapoléonは寄港したマルタを占拠。しかし、1800年[US024]マルタ民衆がイギリスの力を借りて暴動を起こしてフランスを追放。イギリス軍がマルタ島に駐在することとなった。(上記はマルタの歴史 | Travelsun maltaを参照しました。)

1800年[US024]ロシアはこれを不満として、デンマークスウェーデンプロイセンと共に第2次武装中立同盟を結成。フランスと自由貿易を始めた。

海上封鎖を行っていたイギリスはこの第2次武装中立同盟により海上封鎖が無意味になることを恐れデンマーク艦隊をコペンハーゲンの海戦(1801年[US025]4月2日)で打ち破った。ロシア艦隊は北極海の氷が溶けずデンマークと合流できず、スウェーデンは静観を決め込み、プロイセンには十分な海軍がなかったというのが背景だった。(上記はコペンハーゲンの海戦 - Wikipediaを参照しました。)

結局、デンマークフランス第一帝政の唯一の対等な同盟国として1809年からフランス側に立ち参戦することとなってしまった。ロシアは最終的にナポレオン戦争戦勝国となるのだから、 デンマークは割を食ったとSynmeは思う。 

第2次武装中立同盟について、武装中立同盟 - Wikipediaから下記の通り引用する。コペンハーゲンの海戦の日付のみSynme注記。

1800年から1801年にかけても、イギリスのマルタ島占領問題を契機として二度目の武装中立同盟が結成された。この際の参加国はロシア、デンマークスウェーデンプロイセンである。

イギリスとデンマークは、これが元で対立し、コペンハーゲンの海戦(1801年[US025]4月2日)に至った。これは当時、フランスのナポレオン・ボナパルト将軍が起こしたエジプト遠征に端を発した、フランスによるイギリス牽制の意味も込められていた。

イギリスのデンマーク攻撃によって、同盟は破綻したが、この時、イギリスとフランスとが徹底的に対立したことがナポレオン戦争の本格化に繋がり、この武装中立同盟もその伏線となった。

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イギリスの対米海上封鎖に対抗して、ロシアはスウェーデンデンマークプロイセンポルトガルと共に第一次武装中立同盟(1780年[US004]〜1783年[US007])を結成した。ロシアはアメリカの独立を間接的に助けた。 

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オーストリアがラシュタット会議を引き延ばす中、Napoléonがエジプト遠征に失敗。Napoléonの不在を好機と見たオーストリア1798年[US022]第二次対仏同盟を結成し、再度参戦した。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。オーストリアは一時イタリアを奪還したが、1799年[US023]クーデターにより第一統領となったNapoléonにマレンゴの戦い(1800年[US024])で敗北、ホーエンリンデンの戦い(同年)でドイツ方面でも敗北。 1801年[US025]リュネヴィルの和約により、オーストリアバタヴィア共和国ヘルヴェティア共和国チザルピーナ共和国、リグリア共和国の承認を再確認し、フランスによるラインラントの併合を承認した。再びイギリスのみが交戦を続けることとなったが、1802年[US026]アミアンの和約を締結してフランスと講和。フランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。

 

文責:鵄士縦七

ロシアの地政学07:1798-1801第二次対仏大同盟

ひきつづきロシアの地政学を学ぶ。今回は第二次対仏大同盟をロシアの観点から学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。  

ロシアは第二次対仏大同盟(1798年[US022]〜1801年[US025])に参加し、北イタリアやスイスでオーストリアと共にフランスと戦った。北イタリアで勝利したが、第2次チューリッヒの戦い(1799年[US023])に敗北して撤退。翌1800年[US024]ロシアはフランスと和平を結び第二次対仏大同盟から脱落した。

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Yekaterina II(戴冠1762年[bUS014]10月3日〜死去1796年[US020]11月17日)は、トルコ(オスマン帝国)に勝利(1774年[bUS002])し、第一次武装中立同盟(1780年[US004]〜1783年[US007])でイギリスを孤立させてアメリカの独立を助け、スウェーデンとの戦争をドローで収集(1788年[US012]6月〜1790年[US014]8月)して、トルコ(オスマン帝国)に再び勝利(1787年[US011]4月〜1791年[US025]12月29日、ヤッシー条約)してバルカン半島進出の足掛かりを得て、1795年[US019]にポーランド・リトアニア共和国の全領土を分割(第1次1772年[bUS004]、第2次1793年[US017]、第3次1795年[US019])した。

Yekaterina II亡き後、ロシアはフランスとイギリスの間を揺れ動く外交の時代を迎える。まず、ロシアはイギリスと同盟してフランスに対峙する。

第二次対仏大同盟(1798年[US022]12月24日〜1801年[US025]2月9日)の参加国はイギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国だった。

この第二次対仏大同盟において、ロシアはオーストリアと共に北イタリア及びスイス(ヘルヴェティア共和国)でフランスと戦った。

北イタリアにおいてオーストリア軍はフランス軍に対し優勢だったが、Alexander Suvorov率いるロシア軍が加わり、カッサーノの戦い(1799年[US023]4月29日)でロシア・オーストリア同盟軍がフランス軍に勝利した。これにより、フランス軍は更に劣勢に立たされてジェノヴァまで後退した。

スイス(ヘルヴェティア共和国)において第1次チューリッヒの戦い(1799年[US023]6月4日〜7日) でオーストリア軍はフランス軍に勝利していた。その後、ロシア軍がオーストリア軍に加わり、ロシア・オーストリア同盟軍がフランス軍と対峙していた。

Alexander Suvorov率いるロシア軍が北イタリアからスイスに向かったが、第2次チューリッヒの戦い(1799年[US023]9月25日〜26日)でロシア・オーストリア同盟軍がフランス軍に敗北してしまったため、ロシア軍はアルプス越えを行ってスイスから退却した。

ロシアは翌1800年[US024]にフランスと和平を結び第二次対仏大同盟から脱落した。

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アレクサンドル・スヴォーロフ - Wikipedia

Alexandr Suvorovはロシア帝国の軍人であり、ロシア帝国歴代4人目にして最後の大元帥。軍事史上でも稀な不敗の指揮官として知られる。

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synme.hatenablog.com

オーストリアがラシュタット会議を引き延ばす中、Napoléonがエジプト遠征に失敗。Napoléonの不在を好機と見たオーストリア1798年[US022]第二次対仏同盟を結成し、再度参戦した。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。オーストリアは一時イタリアを奪還したが、1799年[US023]クーデターにより第一統領となったNapoléonにマレンゴの戦い(1800年[US024])で敗北、ホーエンリンデンの戦い(同年)でドイツ方面でも敗北。 1801年[US025]リュネヴィルの和約により、オーストリアバタヴィア共和国ヘルヴェティア共和国チザルピーナ共和国、リグリア共和国の承認を再確認し、フランスによるラインラントの併合を承認した。再びイギリスのみが交戦を続けることとなったが、1802年[US026]アミアンの和約を締結してフランスと講和。フランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。

 

文責:鵄士縦七

 

ロシアの地政学06:1795第3次ポーランド分割

ひきつづきロシアの地政学高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に学ぶ。今回はポーランド分割。3回に分けて行われて、最後はポーランドの国そのものが消滅してしまったと言う乱暴な話。最初に、クールにザックリまとめる。

1795年[US019]、ロシアプロイセン及びオーストリアの3国がポーランドの全領土を分割(第3次ポーランド分割)してしまった。

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1762年[bUS014]10月3日に戴冠したYekaterina II、トルコ(オスマン帝国)に勝利(1774年[bUS002])し、第一次武装中立同盟(1780年[US004]〜1783年[US007])でイギリスを孤立させてアメリカの独立を助け、スウェーデンとの戦争をドローで収集(1788年[US012]6月〜1790年[US014]8月)して、トルコ(オスマン帝国)に再び勝利(1787年[US011]4月〜1791年[US025]12月29日、ヤッシー条約)してバルカン半島進出の足掛かりを得て、お次はポーランドの全領土分割である。

さて、ポーランド分割は3度にわたって行われた。1772年[bUS004]8月5日に第1次ポーランド分割、1793年[US017]1月23日に第2次ポーランド分割、そして1795年[US019]10月24日が最後となる第3次ポーランド分割だ。

ポーランド分割と呼ばれるが、分割の対象となったのは、ポーランド・リトアニア共和国の領土であった。

ポーランド・リトアニア共和国は1569年[bUS207]7月1日ルブリン合同によりポーランド王国リトアニア大公国が統合されて成立した。 その領土は広大で、現在のポーランドベラルーシウクライナの一部、リトアニアラトビアの一部を含んでいた。

Synmeは知らなかったが、リトアニア大公国リトアニア王国としての成立は1251年[bUS525]7月17日〜)は強大な国家だった。当初リトアニア人が支配した領土は「原リトアニア」と呼ばれる、現代のリトアニア共和国とほぼ同じ狭い地域だったが、人口の膨大なルーシ(現在のロシア・スモレンスク地方、ベラルーシ、西部ウクライナ)の正教徒の人々が住む広大な地域を包含する領土を形成していた。

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1796年[US020]11月17日にYekaterina IIが死去。南下政策は一旦収束する。Yekaterina IIの功績は衰退しつつあった西の大国ポーランド・リトアニア共和国を滅亡せしめ、南の大国トルコ(オスマン帝国)からアゾフ海クリミア半島を獲得し、地中海への海路を確保した点にあった。

しかし、この両大国を制したことにより、この後のロシアはオーストリアプロイセンそしてイギリスとの対立を深めていくことになる。同時に、Napoléon Bonaparteの出現によるフランス第一共和政第一帝政とも対立するため、ロシアとヨーロッパ諸国との外交関係は複雑にならざるを得なかったかもしれないとSynmeは考える。この複雑な関係性は第二次世界大戦に至るまで基本的に変わらない。

とにかく今回、南で隣接するトルコ(オスマン帝国)だけでなく、西に隣接するポーランド・リトアニア共和国も大国であった、つまりロシアにとっては脅威であったという点についてSynmeは改めて学んだ。

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ポーランドについては、2020年代の地政学という観点からは重要だと考えているので、Synmeは改めて学ぶ予定だが、備忘のために高橋氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門から引用しておく。

最後の分割後にはポーランドに残された領土はゼロ、つまりポーランドという国そのものが消滅してしまった。第一次大戦後、じつに120年あまりも後に一度独立するも、第二次世界大戦ではドイツとソ連に再び分割され、本格的な独立は1945年まで待たねばならなかった。

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ポーランド分割は、第1次と第3次がロシア、プロイセンオーストリアの3国で行われ、第2次はロシアとプロイセンの2国で行われた。ロシア以外の2国について簡単に。

まず、ブランデンブルグプロイセンについて、ザックリまとめる。1701年[bUS075]にハプスブルク家に認められてプロイセン王国が成立。1806年[US030]に神聖ローマ帝国が解体されると、ブランデンブルク辺境伯領がプロイセン王国ブランデンブルク州となった。

次に、オーストリア大公国(ハプスブルク君主国)について、ザックリまとめる。第1にオーストリア大公国(1457年[bUS319]〜1804年[US028])は神聖ローマ帝国内の領邦の1つ。第2に、ハプスブルク君主国(1526年[bUS250]〜1918年[US142])はハプスブルク家オーストリア大公国に加えてハンガリー王国ボヘミア王国ボヘミア王冠領)を獲得して成立。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、事実上の国家としてオーストリアと呼称されていた。既に形骸化していた神聖ローマ帝国がNapoléonの出現によりその実質も失うに至り、ハプスブルク家は1804年[US028]オーストリア帝国を成立させ、1867年[US091]Napoléonによるライン同盟成立後はオーストリア=ハンガリー帝国(〜1918年[US142])を総称とした。つまり、ポーランド分割当時は正式の呼称ではないが、オーストリア大公国(ハプスブルク君主国)が実情に近い呼称といえる。

 

文責:鵄士縦七

 

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

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ロシアの地政学05:1787-1792ロシア・トルコ戦争、ヤッシー条約

ひきつづきロシアの地政学高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に学ぶ。今回は1787-1791ロシア・トルコ戦争(ヤッシー条約)。最初に、クールにザックリまとめる。

1787年[US011]ロシア・トルコ戦争勃発。ロシアが勝利し、1791年[US015]ヤッシー条約を調印。ロシアは、クリム・ハン国の併合を認めさせバルカン半島進出の足掛かりを得た。

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1762年[bUS014]10月3日に戴冠したYekaterina II、トルコ(オスマン帝国)に勝利(1774年[bUS002])し、第一次武装中立同盟(1780年[US004]〜1783年[US007])でイギリスを孤立させてアメリカの独立を助け、スウェーデンとの戦争をドローで収集(1788年[US012]6月〜1790年[US014]8月)して、お次はトルコ(オスマン帝国)と再戦である。

1775年[bUS001]ロシアはクリム・ハン領とザポロージャ領を合併、ノヴォロシアと改名。翌1776年[US000]、ロシアは黒海艦隊を編成し、クリミア半島の先端にセヴァストポリ軍港の建設を始めた。1783年[bUS007]ロシアがクリム・ハン国を併合すると、1787年[US011]4月トルコがロシアに対して宣戦してロシア・トルコ戦争が勃発。

ロシアが勝利し、1791年[US025]12月29日ヤッシー条約を調印。ロシアは、クリム・ハン国の併合を承認させ、エディサン地方を割譲。トルコとの国境を西方に進め(ドニエストル川)、バルカン半島進出の足掛かりを得た。

この戦争では、オーストリアがロシアを支持し、イギリスとスウェーデンオスマン帝国を支持した。しかし、オスマン帝国の深くにまで軍を進めたロシア軍の勢いを前に、イギリスとスウェーデンは手を引いた。結果、孤立無援となったオスマン帝国はロシアに屈せざるを得なかった。

ロシアは終始攻勢だったが、フランス革命(1789年[US013] )の影響等で講和に至った。

 

文責:鵄士縦七

 

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