Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

地政学を学ぶフレームワーク06

イギリスの地政学を学ばなければいけない理由は中東問題に留まらない。

そもそもSynmeは地政学を学んでいるのは、日本のこれからの外交と軍事について、自分なりに考えられるようになりたいからだった。そして、クールにザックリ学ぶための工夫として、Synmeは「アメリカの時代」というフレームワークを仮定して戦争の歴史を学習している。

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加えて、Synmeは時代ごとの超大国との関係性を意識した視点で国際関係を観察するのが合理的であるとも考えていて、1941年のレンドリース法成立以降を超大国アメリカの時代とみなし、1600年のイギリス東インド会社設立以降1941年までを超大国イギリスの時代であったとみなしている。

独立宣言から冷戦終結までクールにザックリ学んできたアメリカの比較対象として最も適切であるという理由からも、イギリスの地政学は学んでおかなければならないと。秋田茂氏のイギリス帝国の歴史 (中公新書)p.19-22を引用する。

(中略)あらためて世界史における帝国の歴史を振り返るなかで、アメリカを中心に語られる現代世界の成り立ちを考察する必要があろう。

その際に、数多くの比較検討の素材を提供してくれるのが、イギリス帝国である。イギリス帝国は、近代世界において最大の帝国であり、世界の陸地の約4分の1を領土として支配した経験を持つ。

(中略)19世紀半ば以降のイギリスは、世界のヘゲモニー国家(派遣国家)になった。そのヘゲモニー国家としての地位を20世紀後半に引き継いで現在に至ったのが、アメリカ合衆国である。

秋田氏は、同書において、長期の18世紀(1688年[bUS088]名誉革命〜1815年[US039]11月20日ナポレオン戦争終結)、19世紀、20世紀の3つの時期に分けてイギリス帝国を考察している。

イギリスの地政学をしっかり学ぶことが日本のこれからの外交と軍事を考える上でとても重要なことは理解した。では、なぜすぐにイギリスの地政学を学ばないのか?フランスとロシアの地政学を学ぶ意義を考えたい。

 

文責:鵄士縦七

 

イギリス帝国の歴史 (中公新書)

イギリス帝国の歴史 (中公新書)

 

 

 

 

 

地政学を学ぶフレームワーク05

前回までアメリカの地政学として革命戦争から冷戦終了までを学んできた。次にどう学んで行くべきか、Synmeなりに色々と考えた。

その結果、Synmeは次回から以下のような順序で学んで行くことにした。

  1. フランスの地政学をごく一部だけ、かつ、数回分だけ学んで、
  2. ロシアの地政学をしっかり学び、
  3. イギリスの地政学を学んで、
  4. 中東地域でのアメリカの地政学を学ぶ

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なぜ、この順序で学ぶことにしたのか?

言うまでもないことだが、アメリカが唯一の超大国となった(1991年[US215]12月25日)後の現代史は2001年[US225]9月11日アメリカ同時多発テロ事件を起点として紡がれている。つまり、中東地域を学ばないと、2010年代・2020年代アメリカの地政学はその基礎を欠くのだ。

中東問題と言えば、イギリスだ。イギリスの三枚舌外交について高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門p164-171を参照すると、高橋氏は以下の様に書いている。

(中略)同盟国として参戦したオスマン帝国の解体では、現代にまで続く中東問題が芽生えてしまった。それを説明するには、第一次世界大戦中のイギリスの多重外交にまで遡らなくてはならない。

(中略)イギリスは、戦争を有利に進めるために、それぞれの利害関係者に異なる言質を与える「三枚舌外交」を行った。そして、今日まで続く中東問題の大本を作ってしまったのである。

具体的には、イギリスは以下のような外交を行った。

これらにより、クルド人問題とパレスチナ問題が生じたのだ。

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第一次大戦は連合国と同盟国によって争われた。同盟国の構成は、ドイツ帝国オーストリア・ハンガリー帝国オスマン帝国ブルガリア王国の4ヶ国であった。では、戦争に敗れた同盟国はどうなったか?

ブルガリア王国は、領土の割譲、賠償金の支払い、戦後軍備の制限などをヌイイ条約で取り決め講和した。ドイツ帝国も領土の割譲、(巨額ではあるが)賠償金の支払い、戦後軍備の制限等をヴェルサイユ条約で取り決め講和した。これらに対し、オーストリア・ハンガリー帝国オスマン帝国はそれぞれ1918年[US136]10月31日と1922年[US146]11月17日に皇帝が海外に亡命して滅亡した。

中東問題の根幹は、オスマン帝国の解体にあったのだ。

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オスマン帝国の最大領土について、こちらを参照して下さい。 

 

文責:鵄士縦七 

 

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

 

 

アメリカの地政学32

ひきつづき革命戦争から冷戦終結までのアメリカの地政学をクールにザックリ振り返ってみよう。続いて、海外領土拡大から冷戦に勝利するまで。

  • 領土拡大に起因する内部対立から内戦(南北戦争1861年[US085]〜1865年[US089])が起こるが、アメリカは多大な犠牲を払いながら国家の統一を保った。
  • 1867年[US091]、アメリカはロシアから720万ドルでアラスカを購入。
  • 拡大した本土領土内においても、19世紀末(例えば、ウンデット・ニーの虐殺は1890年[US114])を境にインディアンによる抵抗は終息。
  • 1898年[US122]米西戦争勃発。アメリカはスペインに勝利し、フィリピン、グアム島プエルトリコを獲得。キューバ保護国化。ハワイを併合。1914年[US138]第一次世界大戦勃発(〜1918年[US142])。アメリカはハイチ、ドミニカ共和国を征服した。
  • 1939年[US163]第二次世界大戦勃発(〜1945年[US169])。アメリカは1941年[US165]12月7日の真珠湾攻撃を機に参戦して連合国を勝利に導いた。
  • 【冷戦第一波】▲アメリカは封じ込め政策・欧州復興計画やNATO設立により欧州でソ連と対立。1950年[US174]アジアで朝鮮戦争が勃発。アメリカとチャイナの代理戦争となったが、北緯38度線は譲らなかった。1955年[US179]南北に分断されていたベトナムで内戦勃発。介入したアメリカが実質的に敗北した。1973年[US197]にパリ和平協定が調印されたが停戦合意は守られず、1975年[US199]北ベトナムによって南ベトナムは崩壊。▼アメリカは数多の軍事同盟を締結して西側陣営の拡充を図るも、ワルシャワ条約機構設立、ミサイル開発競争など東側陣営との対立は激化。
  • 【冷戦第二波】▲U-2撃墜事件(1960年[US184]を機にアメリカとソ連との対立が表面化。ベルリン危機は外交で回避したが、キューバ危機(1962年[US186])を招く。▼核戦争の危機は回避され、アメリカはベトナム戦争の停戦(1973年[US197])を達成。
  • 【冷戦第三波】▲しかし、アメリカは内政で混乱し、各国の共産化を止められずイランまで反米に転じ、ソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])を招く。▼ ところが、アフガン侵攻が泥沼化してソ連が苦境に。アメリカは更なる軍拡競争を仕掛けて、ソ連をギブアップさせた。ソ連は1991年[US215]に崩壊。アメリカが冷戦に勝利した。

つまり、革命戦争からアメリカ本土の領土拡大完了までに加えて、海外領土拡大から冷戦に勝利するまでのアメリカの地政学を、より一層クールにザックリまとめると以下の通り。

アメリカは、フランススペインの協力を取り付けて革命戦争に勝利イギリスから独立した。米英戦争ではカナダ獲得に失敗したものの領土は失わず、経済的にイギリスから自立した。その後、外交力でフランスから仏領ルイジアナスペインからフロリダ地方、イギリスからオレゴン地方を順次獲得した。欧州列強との国境問題が一段落すると、テキサスを併合してメキシコを挑発。戦争にも勝利して太平洋岸まで至る広大な領土(カリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ等)を獲得。本土の領土拡大を独立後80年弱で完了した。

内戦を乗り越えて統一を保ったアメリカは 、ロシアからアラスカを購入。スペインに戦争で勝利してフィリピングアムプエルトリコを獲得し、キューバ保護国化。ハワイも併合。WWI中にはハイチドミニカ共和国を征服。WWII中にはアメリカ大陸のイギリス海軍基地のほとんどを譲り受け、大西洋と太平洋との両方での制海権を手に入れた。WWII後はソ連との冷戦が勃発したが、経済力で勝利ソ連は崩壊。独立後215年で世界で唯一の超大国となった。

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クリミア戦争で疲弊したロシアからアラスカを獲得したのは「会心の一撃」だったとSynmeは思う。この「購入」がなかったら現代史は大きく違っていただろうと思う。

そして、メキシコに勝利した勢いそのままに落日の帝国スペインを叩きのめして太平洋に進出。ハワイ→グアム→フィリピンは効率的な太平洋の架け橋だ。大西洋については、カリブ海を押さえておいてWWIIでイギリスから制海権を譲り受けることに成功した、というのがSynmeの印象。

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ここまでの各回のクールにザックリも再掲しておく。  

  • 1861年[US085]南北戦争勃発(〜1865年[US089])4年を超える内戦で約50万人の戦死者を出しながらもアメリカ合衆国(USA)がアメリカ連合国(CSA)に勝利して、国家の統一を保った
  • 1867年[US091]、アメリカはクリミア戦争で疲弊したロシアから720万ドルでアラスカを購入する条約に調印した。
  • 19世紀後半、拡大した領土内において、アメリカはスー族、アパッチ族ナバホ族などとインディアン戦争を続けていた。19世紀末(例えば、ウンデット・ニーの虐殺は1890年[US114])を境にインディアンによる大規模な抵抗は行われなくなった。
  • 1898年[US122]米西戦争勃発。アメリカはスペイン勝利し、同年調印されたパリ条約で、太平洋ではフィリピングアム島を獲得した。大西洋ではプエルトリコを獲得しキューバ保護国とした。また、交戦状態停止後に、ハワイを併合した。
  • 1914年[US138]第一次世界大戦勃発(〜1918年[US142])。ドイツによる植民地化を防ぐため、アメリカは1915年[US139]にハイチ、1916年[US140]にドミニカ共和国を征服、軍政を敷いた。アメリカの大戦への参戦は1917年[US141]4月と最終盤であり、実質的な関与は大きくなかった。
  • 1939年[US163]第二次世界大戦勃発(〜1945年[US169])。アメリカは当初は参戦しなかったが、1941年[US165]12月7日の真珠湾攻撃を機に参戦して連合国を勝利に導いた。アメリカ自身わずかな犠牲の見返りとして、北大西洋、西ヨーロッパ、日本、朝鮮半島などで多大な戦果を得た。
  • 【冷戦第一波】▲アメリカは原爆投下により対決姿勢を鮮明にし、封じ込め政策・欧州復興計画やNATO設立により欧州でソ連と対立した。一方、ソ連の原爆保有達成を背景に、アジアで朝鮮戦争が勃発(1950年[US174])したが、北緯38度線は譲らなかった。
  • 1950年[US174]朝鮮戦争勃発。当初は、北朝鮮が韓国に侵攻した戦争だった。しかし、韓国軍の北緯38度線独断先行突破を機に戦争は長期化し、アメリカとチャイナの代理戦争となった。シーソーゲームと化した戦争は1953年[US177]に結局元通りの北緯38度線で休戦。定義上は現在も終結していない。
  • 北緯17度線で南北に分断されていたベトナムで、1955年[US179]南ベトナム傀儡政権が成立すると内戦勃発。アメリカ・南ベトナム北ベトナム・NLF等が戦い、内戦に介入したアメリカが実質的に敗北した。1973年[US197]にパリ和平協定が調印されたがアメリカ軍の全面撤退後は停戦合意は守られず、攻撃を継続した北ベトナムによって1975年[US199]に南ベトナムは崩壊し、約20年に渡ったベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)は終結した。翌1976年[US200]に南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立が宣言された。
  • 【冷戦第一波】▼アメリカは朝鮮戦争を休戦しKhrushchev訪米(1959年[US183])を実現させる一方で、数多の軍事同盟を締結して西側陣営の拡充を図るも、ワルシャワ条約機構設立、ミサイル開発競争など東側陣営との対立は激化。
  • 【冷戦第二波】▲アメリカの高高度偵察機が撃墜され、(U-2撃墜事件、1960年[US184])たことを機にソ連との対立が表面化。ベルリン危機は外交で回避に成功したが、キューバ革命政権の転覆には失敗しキューバ危機(1962年[US186])を招く。▼核戦争の危機は回避され、アメリカは泥沼化したベトナム戦争を外交で停戦(1973年[US197])まで持ち込んだ。
  • 【冷戦第三波】▲しかし、アメリカは内政で混乱し、南アジアや中東諸国の共産化を止められなかった。親米のイランまで反米に転じてしまった結果、ソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])を招く。▼ ところが、アフガン侵攻が泥沼化してソ連が苦境に。アメリカは更なる軍拡競争を仕掛けて、ソ連をギブアップさせた。Gorbachevが書記長に就任(1985年[US209])し、アメリカとソ連で冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、東側陣営の求心力を失ったソ連は1991年[US215]に崩壊。アメリカが冷戦に勝利した。

 

文責:鵄士縦七

アメリカの地政学31

さて、予定より長くかかったが、革命戦争から冷戦終結までのアメリカの地政学を学んだ。ここで2回に分けて振り返ってみる。まずは、アメリカ本土の領土拡大完了まで。 

  • 1775年[bUS001]革命戦争勃発。イギリス領13植民地は大陸軍を結成し、翌1776年[US000]にアメリカ合衆国の独立を宣言した。アメリカは、フランスと同盟、スペインの助力も得て、革命戦争に勝利した。1783年[US007]ミシシッピ川より東をアメリカ領とした。アメリカは1803年[US027]には仏領ルイジアナを購入して、領土は西に広がり約2倍になった。
  • 1812年[US036]米英戦争勃発。アメリカはカナダの獲得には失敗したが、特に領土を失うこともなく、むしろインディアン征服は一層進展した。
  • 1818年[US042]、アメリカはイギリスとオレゴン地方を共同領有することに合意。更に1819年[US042]にスペインからフロリダ地方を割譲することに合意。両大国との国境線を一旦確定させた。 
  • 1846年[US070]、アメリカはオレゴン地方をアメリカ領とすることでイギリスと合意。同年、テキサス併合(1845年[US069])を契機として米墨戦争勃発。アメリカはメキシコに勝利して太平洋岸まで領土を拡げ、更に1853年[US077]にガズデン購入。本土の領土拡大を完了させた。

つまり、革命戦争からアメリカ本土の領土拡大完了までのアメリカの地政学を、クールにザックリまとめると以下の通り。

アメリカは、フランススペインの協力を取り付けて革命戦争に勝利イギリスから独立した。米英戦争ではカナダ獲得に失敗したものの領土は失わず、経済的にイギリスから自立した。その後、外交力でフランスから仏領ルイジアナスペインからフロリダ地方、イギリスからオレゴン地方を順次獲得した。欧州列強との国境問題が一段落すると、テキサスを併合してメキシコを挑発。戦争にも勝利して太平洋岸まで至る広大な領土(カリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ等)を獲得。本土の領土拡大を独立後80年弱で完了した。

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欧州諸国の対立を巧みに活用しながら、戦争だけでなく外交力で本土の領土拡大を進め、力をつけたところでLocal Direct Competitorたり得たメキシコを叩きのめした(実際、米墨戦争でメキシコは約3分の1の領土を失っている)と言う印象をSynmeは受ける。

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ここまでの各回のクールにザックリも再掲しておく。

  • 1775年[bUS001]アメリカ植民地民兵隊とイギリス軍の間で革命戦争勃発。イギリス領13植民地は、Washington総司令官の下で大陸軍を結成し戦争を継続。翌1776年[US000]アメリカ合衆国の独立を宣言した。B.Franklinの尽力によりフランスがアメリカ側に参戦。フランスの同盟国としてスペインも参戦。1781年[US005]にフランス海軍がイギリス海軍を破ると、イギリス軍は孤立。米仏連合軍がイギリス軍を降伏させ、アメリカが革命戦争に勝利した。1783年[US007]イギリスがアメリカの独立を承認。ミシシッピ川より東をアメリカ領とした。
  • 1803年[US027]アメリカはフランスから仏領ルイジアナを1500万ドルで購入した。アメリカの領土はミシシッピ川を越えて西に広がり、その面積は約2倍になった。
  • 1812年[US036]米英戦争勃発。アメリカはカナダの獲得を狙ったが失敗した。戦争は1814年[US038]に終結した(ガン条約)が、顕著な領土変更は生じなかった。一方で、アメリカによるインディアン征服が一層進展した。
  • アメリカはイギリス1818年[US042]条約を締結し、オレゴン地方を10年間共同領有することと、アメリカとカナダの国境を北緯49度線とすることに合意した。
  • 1819年[US042]アメリカはスペインとアダムズ・オニス条約を締結し、500万ドルでフロリダ地方をアメリカに割譲することと、アメリカとスペイン領の国境を確定させることに合意した。 
  • 1845年[US069]アメリカがテキサスを併合した。併合にあたり、アメリカはテキサス州とメキシコとの国境をリオ・グランデ川と主張した。メキシコとの対立は決定的になった。
  • 1846年[US070]オレゴン条約調印。アメリカとイギリスは北アメリカにおける境界を北緯49度線とする(ただし、バンクーバー島はイギリス領とする)ことに合意した。共同領有は終わり、オレゴン地方はアメリカ領となった
  • 1846年[US070]米墨戦争勃発。アメリカはメキシコに勝利し、1848年[US072]に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約で、1,825万ドルを対価にカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ等を獲得して太平洋岸まで領土を拡げた
  • 1853年[US077]アメリカはメキシコから1,000万ドルでアリゾナ州南部およびニューメキシコ州南西部の地域を購入(ガズデン購入)した。アメリカ本土の領土拡大が完了した。 

 

文責:鵄士縦七 

アメリカの地政学30:19世紀末インディアン戦争

革命戦争(1775年[bUS001]4月19日〜1783年[US007]9月3日)まで遡ってアメリカの地政学を学んできたが、米西戦争以前の最後の回として、インディアン戦争について学ぶ。インディアン戦争について学ぶと言っても、19世紀後半の戦闘をいくつか学ぶに留まる。最初に、クールにザックリまとめる。

19世紀後半、拡大した領土内において、アメリカはスー族、アパッチ族ナバホ族などとインディアン戦争を続けていた。19世紀末(例えば、ウンデット・ニーの虐殺は1890年[US114])を境にインディアンによる大規模な抵抗は行われなくなった 

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白人入植者によるインディアンの征服戦争を総称してインディアン戦争という。イギリスがアメリカ大陸への入植を始めた17世紀前半から、白人入植者は、植民地の安全確保と拡大のために、インディアン部族間の争いを利用し、代理戦争を行わせた。

19世紀後半、アメリカは、植民地の安全確保と拡大に加えて金鉱を求めて、インディアン戦争を継承していた。具体的には、大平原のスー族(ブラックヒルズ戦争(1876年[US100]~1877年[US101])、ウンデット・ニーの虐殺(1890年[US114]12月29日))や南西部の略奪民アパッチ族Geronimoの抵抗・降伏(アパッチ戦争、1882年[US106]~1886年[US110]))、ナバホ族などのインディアンの最大抵抗勢力を排除していった。

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スー(Sioux)族は、アメリカ北部中西部に先住するインディアン部族である、ダコタ族、ラコタ族、およびナコタ族の総称。

ブラックヒルズ戦争はスー族の領土にあるブラックヒルズの金鉱を占領するため、アメリカが和平条約を破ってスー族、シャイアン族、アラパホー族インディアンに対して行ったインディアン戦争。 

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アパッチ(Apache)族は、6つの文化的に関連のあるアメリカ・インディアン部族の総称。いずれも南アサバスカ語系の言語を話す。 アメリカはナバホ(Navajo)族をアパッチ族と混同・同視していたようだ

南西部で最後の大規模な作戦計画にアメリカ軍は5,000名の兵士を投入した。この作戦でアパッチ族Geronimoと24名の戦士、女子供が1886年に降伏し南西部で最後の大規模な作戦計画は5,000名の兵士を投入した。この作戦でアパッチ族ジェロニモと24名の戦士、女子供が1886年に降伏した。

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ナバホ族(Navajo)は、アメリカの南西部に先住するインディアン部族。アサバスカ諸語を話すディネの一族。ナバホ族アリゾナ州の北東部からニューメキシコ州にまたがるフォー・コーナーズの沙漠地帯に、一定の自治権保有した「ナバホ・ネイション (Navajo Nation)」として、アメリカ最大の保留地(Reservation)を領有している。ロング・ウォークでナバホ族が南西部から追い出された間に、彼らの土地にはホピ族の一部が定住した。このため、現在ではナバホ族の保留地の中に、ホピ族の保留地が存在するという状況となっている。

Lincoln大統領は、1863年夏、保留地に入ることを拒んで抵抗戦を続けていたナバホ族の殲滅を命じた。アメリカ軍は焦土作戦ナバホ族の力を削いだ。1864年[US088]、アメリカ軍はナバホ族をサムナー砦の収容所ボスク・ルドンドまで、「ロング・ウォーク・オブ・ナバホ」と呼ばれる、徒歩連行を強制した。8,000人が収容され強制労働に従事させられ、1868年に和平協定で元の土地に戻るまでに、2000人のナバホ族が死んだ。

 

文責:鵄士縦七 

アメリカの地政学29:18670330アラスカ購入

ひきつづきアメリカの地政学としてアラスカ購入を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1867年[US091]、アメリカはクリミア戦争で疲弊したロシアから720万ドルでアラスカを購入する条約に調印した。

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クリミア戦争(1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)で疲弊し、アラスカの売却を決めたロシアが、敵対したイギリスを避け、アメリカを買い手に選んだ。1867年[US091]3月30日、アメリカはロシアから720万ドルでアラスカを購入する条約に調印した。

アメリカ側の交渉を担ったのは国務長官William Henry Sewardであった。購入直後は、「スワードの愚行」あるいは「スワードの冷蔵庫」等と批判されたようだ。戦略的に正しい外交・戦争は国民に支持されるとは限らない(むしろ大批判されることも多い)という典型例だとSynmeは思う。

同1867年[US091]10月18日アラスカが引き渡され、実質的なアメリカの領土となった。アメリカではこの10月18日はAlaska Dayという記念日とされている。

ちなみに、条約調印の3月30日にちなみ、アメリカでは3月最終月曜日をSeward Dayという記念日としている。

 

ロシアは毛皮採取、鉱物採掘を目的として18世紀から北アメリカの太平洋岸に進出していた。サンフランシスコのすぐ北に砦(フォート・ロス)を築くまで南下していた。

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アラスカ購入後のアメリカ領土の地図は以下を参照して下さい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国領土の変遷#/media/File:United_States_1867-10-1868.png

 

文責:鵄士縦七

アメリカの地政学28:1861-1865南北戦争

今回はアメリカの地政学として、アメリカ唯一の内戦である南北戦争を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1861年[US085]南北戦争勃発(〜1865年[US089])。4年を超える内戦で約50万人の戦死者を出しながらもアメリカ合衆国(USA)がアメリカ連合国(CSA)に勝利して、国家の統一を保った

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1861年[US085]4月12日、アメリカ史上唯一の内戦(南北戦争、The Civil War)勃発。約50万人の戦死者を出しながらも、保護貿易を求める北部自由州(アメリカ合衆国、USA(United States of America))が自由貿易奴隷制存続を掲げて独立を求めた南部奴隷州(アメリカ連合国、CSA(Confederate States of America))に勝利(1865年[US089]4月9日にアポマトックス・コートハウスの戦いに敗北した南軍リー将軍北軍グラント将軍に降伏。南北戦争は事実上終結した。)して、国家の統一を保った。

連合国の範囲(参照:アメリカ連合国 - Wikipedia)を確認しよう。連合国形成、南北戦争勃発の経緯も以下の通り。 

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この南北戦争を戦ったのがAbraham Lincoln第16代大統領(在任:1861年[US085]3月4日〜1865年[US089]4月15日)である。

ルイジアナ購入や米墨戦争勝利などの相次ぐ領土拡大が南北対立の背景だが、Lincoln大統領の当選(1860年[US084]11月)が南部奴隷州の連邦脱退の直接の契機であった。実際、Lincoln大統領就任(1861年[US085]3月4日)の1ヶ月前にCSAが成立している。

また、1865年[US089]4月9日に南北戦争が事実上集結し、その6日後の4月15日にLincolnは暗殺されている。その4年と少しの任期の大半は北軍のリーダーとしてアメリカの統一を維持すべく戦うことに費やされ、Lincolnが統一アメリカの大統領だったのは4月10日〜15日のたった6日間だけだった。

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カンザスネブラスカ法について、少しだけ触れておく。

カンザスネブラスカ法は、1854年[US078]にカンザス準州ネブラスカ準州を創設して新しい土地を開放し、1820年[US044]のミズーリ妥協を撤廃し、2つの準州開拓者達がその領域内で奴隷制を認めるかどうかは自分達で決めることを認めた法律である。この法律は民主党上院議員スティーブン・ダグラスによって考案された。

 

文責:鵄士縦七