Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

アメリカの地政学18

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今回から、当初の予定通り少し遡って下記4つの戦争を学ぶ予定だった。

  1. 1775年[bUS001] 革命戦争(アメリカ独立戦争)(〜1783年[US007])
  2. 1812年[US036] 米英戦争(~1814年[US038])
  3. 1846年[US070] 米墨戦争(〜1848年[US072])
  4. 1861年[US085] 南北戦争(〜1865年[US089])

synme.hatenablog.com

 

しかし、アメリカの地政学について、Synmeが冷戦と革命戦争(アメリカ独立戦争)を学ぶ過程で、2つのWikipedia記事(アメリカ軍 - Wikipediaアメリカ合衆国領土の変遷 - Wikipedia)がとても有用だった。

そして、これらを参照しつつ改めてアメリカの地政学の学習方針を検討すると、戦争だけでなく条約締結や購入(Purchase)によってアメリカ大陸の土地取得を進めていく米西戦争以前については、4つの戦争を含めて下記11個のイベントを学ぶべきだとSynmeは考えた。当初予定より長くはなるが、必要・有用とSynmeは考える。1つずつ、基本のスタンスに戻って、クールにザックリ学びたい。

  1. 1775年[bUS001] 革命戦争(アメリカ独立戦争)(〜1783年[US007])
  2. 1803年[US027] ルイジアナ購入
  3. 1812年[US036] 米英戦争1812年戦争)(~1814年[US038])
  4. 1818年[US042] 1818年条約
  5. 1819年[US043] アダムズ・オニス条約
  6. 1846年[US070] オレゴン条約
  7. 1846年[US070] 米墨戦争(〜1848年[US072])
  8. 1853年[US077] ガズデン条約
  9. 1861年[US085] 南北戦争(〜1865年[US089])
  10. 1867年[US091] アラスカ購入
  11. インディアン戦争:
    1876年[US100] ブラックヒルズ戦争(~1877年[US101])
    1882年[US106] アパッチ戦争(Geronimoの抵抗)(~1886年[US110]) 

インディアン戦争について、少しだけ付け加える。1620年[bUS156]にピルグリム・ファーザーズがプリマス植民地に到着した頃は、インディアンと白人の友好関係があったようだ。インディアン戦争については、諸説あるものの1622年3月22日のジェームズタウンの虐殺が最初の抗争として知られているようだ。

上記で学ぶのは、19世紀末にアメリカ軍とスー族およびアパッチ族それぞれが戦った戦争であり非常に限定的であることを最初に断っておく。

 

文責:鵄士縦七 

 

参照:

アメリカ軍 - Wikipedia

アメリカ合衆国領土の変遷 - Wikipedia

アメリカの地政学17:1945-1991冷戦Vol.8

前回までゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に基づき6回に分けて学んできた通り、1941年[US165]にイギリスの跡を継いで超大国(世界帝国)となったアメリカは、【冷戦の荒波】を乗り切って、1991年[US215]建国215年目のクリスマスに冷戦に勝利した。

改めて、もう少し短くまとめると、

【冷戦第一波】Trumanの原爆投下により決定的となった米ソ対立は、封じ込め政策・欧州復興計画やNATO設立により欧州で緊張を高めた。一方、ソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアで朝鮮戦争が勃発(1950年[US174])した。Truman退任、Stalin死去により、朝鮮戦争は休戦しKhrushchev訪米(1959年[US183])が実現。しかし、数多の軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立、ミサイル開発競争など東西陣営の対立は激化。

【冷戦第二波】U-2撃墜事件(1960年[US184])を機にJ.F.KennedyとKhrushchevは対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機勃発(1962年[US186])により冷戦第二にして最悪のピークに達した。Johsonによりベトナム戦争は泥沼化。Nixonがソ連、中国との緊張緩和、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。 

【冷戦第三波】南アジアや中東で共産国家誕生が相次ぐ中、イラン革命を背景としてソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])によって、米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。 ソ連は、アフガン侵攻の泥沼化でReaganの仕掛けた更なる軍拡競争に対抗できなかった。Gorbachevが書記長に就任(1985年[US209])してアフガニスタンから撤退、G.H.Bushと冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、1991年[US215]にソ連は崩壊した。

これを基に、アメリカの地政学という趣旨に戻って、アメリカの視点で、冷戦をクールにザックリまとめると以下の通り。

【冷戦第一波】アメリカは原爆投下により対決姿勢を鮮明にし、封じ込め政策・欧州復興計画やNATO設立により欧州でソ連と対立した。一方、ソ連の原爆保有達成を背景に、アジアで朝鮮戦争が勃発(1950年[US174])したが、北緯38度線は譲らなかった。アメリカは朝鮮戦争を休戦しKhrushchev訪米(1959年[US183])を実現させる一方で、数多の軍事同盟を締結して西側陣営の拡充を図るも、ワルシャワ条約機構設立、ミサイル開発競争など東側陣営との対立は激化。

【冷戦第二波】アメリカの高高度偵察機が撃墜され、(U-2撃墜事件、1960年[US184]たことを機にソ連との対立が表面化。ベルリン危機は外交で回避に成功したが、キューバ革命政権の転覆には失敗しキューバ危機(1962年[US186])を招く。核戦争の危機は回避され、アメリカは泥沼化したベトナム戦争を外交で停戦(1973年[US197])まで持ち込んだ。 

【冷戦第三波】しかし、アメリカは内政で混乱し、南アジアや中東諸国の共産化を止められなかった。親米のイランまで反米に転じてしまった結果、ソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])を招く。 ところが、アフガン侵攻が泥沼化してソ連が苦境に。アメリカは更なる軍拡競争を仕掛けて、ソ連をギブアップさせた。Gorbachevが書記長に就任(1985年[US209])し、アメリカとソ連で冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、東側陣営の求心力を失ったソ連1991年[US215]に崩壊。アメリカが冷戦に勝利した。

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Synmeの能力不足で学習に長く掛かってしまった冷戦、至らないところは多いと思うが以上でとりあえずいったん終了。

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Synmeが過去6回に掲載した「冷戦の荒波」の"クールにザックリ"部分も再掲しておく。

【冷戦第一波】

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

synme.hatenablog.com

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

synme.hatenablog.com

【冷戦第二波】

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。

synme.hatenablog.com

キューバ危機を受けて、部分的核実験禁止条約が締結されるなどした。J.F.Kennedyが暗殺され、Johsonは(Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続した)ベトナム戦争を拡大したが行き詰まる。Nixonが就任すると、ソ連、中国との緊張緩和を進め、SALT I 妥結(1972年[US196])、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。

synme.hatenablog.com

【冷戦第三波】

折角のパリ和平協定調印にも関わらず、アメリカはベトナムを放置。南アジアではベトナムラオスカンボジア共産国家が誕生し、中東でもアフガニスタン共産国家が誕生した。米ソデタントの流れは続いていたが、イラン革命を背景としてイスラム原理主義革命がアフガニスタン経由で飛び火してくることを懸念したソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])によって、米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。 

synme.hatenablog.com

 ソ連は、アフガン侵攻の長期化に財政を圧迫され、Reaganの掲げたスターウォーズ計画(更なる軍拡競争)に対抗する力を有していなかった。Brezhnev、Andropov、Chernenkoが相次いで死去すると、政治経済の改革を目指すGorbachevが書記長に就任した(1985年[US209])。GorbachevはReaganとINF全廃条約を締結、アフガニスタンから撤退、G.H.Bushと冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、東欧革命・ドイツ統一バルト三国再独立等が相次ぎ、1991年[US215]にソ連は崩壊した。

synme.hatenablog.com

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

アメリカの地政学16:1945-1991冷戦Vol.7

ひきつづき、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第三波】を学ぶ。最初に、【冷静第三波】の対立が緩和していく過程についてクールにザックリまとめる。

ソ連は、アフガン侵攻の長期化に財政を圧迫され、Reaganの掲げたスターウォーズ計画(更なる軍拡競争)に対抗する力を有していなかった。Brezhnev、Andropov、Chernenkoが相次いで死去すると、政治経済の改革を目指すGorbachevが書記長に就任した(1985年[US209])。GorbachevはReaganとINF全廃条約を締結、アフガニスタンから撤退、G.H.Bushと冷戦終結を宣言(マルタ会談)したが、東欧革命・ドイツ統一バルト三国再独立等が相次ぎ、1991年[US215]にソ連は崩壊した。

前回までの冷戦:

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。

キューバ危機を受けて、部分的核実験禁止条約が締結されるなどした。J.F.Kennedyが暗殺され、Johsonは(Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続した)ベトナム戦争を拡大したが行き詰まる。Nixonが就任すると、ソ連、中国との緊張緩和を進め、SALT I 妥結(1972年[US196])、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。 

折角のパリ和平協定調印にも関わらず、アメリカはベトナムを放置。南アジアではベトナムラオスカンボジア共産国家が誕生し、中東でもアフガニスタン共産国家が誕生した。米ソデタントの流れは続いていたが、イラン革命を背景としてイスラム原理主義革命がアフガニスタン経由で飛び火してくることを懸念したソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])によって、米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。  

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【冷静第三波】の対立が緩和していく過程に起こった出来事は以下の通り。

1979年12月24日【冷戦第三波TOP】ソ連アフガニスタンに侵攻。明示的に米ソは対立することとなった。新ソ的な新政権を樹立し、半年程度でソ連軍を撤退させる計画だったが、反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速に悪化。ソ連軍はアフガニスタンに留まり、治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練に従事することとなってしまった。結局、ソ連は1989年2月15日の撤退完了まで9年超という長期間を費やし、戦死者約15,000人という多大な犠牲を払うこととなった。

1980年5月21日 映画『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』が劇場公開

1980年9月22日 イラン・イラク戦争勃発(~1988年8月20日)。原油価格が更に高騰した。

1980年11月4日 現職のCarter大統領を、共和党のReaganが破って当選。

1981年1月20日 アメリカ第40代大統領Reagan就任。同日に、イランアメリカ大使館占拠事件(1979年11月4日)の人質が444日振りに解放された。

1982年[US]11月12日 Brezhnev死去により、Andropov書記長就任。病弱であったため、1984年2月9日に死去。

1983年3月23日 Reaganによる戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative (SDI)、スターウォーズ計画)演説。衛星軌道上にミサイル衛星やレーザー衛星、早期警戒衛星などを配備、それらと地上の迎撃システムが連携して敵国の大陸間弾道弾(ICBM)を各飛翔段階で迎撃、撃墜し、アメリカ合衆国本土への被害を最小限に留めることを目的にした。

アメリカの軍備はそもそも数の上ではソ連に及ばなかったが、先端技術を保持し続けていた。しかし、1980年代におけるソ連の科学技術の進歩はアメリカとソ連の軍備の質の差も縮めていた。

アメリカが一方的に戦略防衛構想(スターウォーズ計画)を進めることで、ソ連は一層の軍備拡張を強いられることとなった。ただでさえアフガニスタン侵攻の泥沼化に苦しんでいたソ連財政赤字を拡大させた。ゆげ氏によると、史上最も金のかかったヴェトナム戦争よりもはるかに大きい予算がこのスターウォーズ計画に投入された(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.218)。

1984年[US]2月13日 Andropov死去により、Chernenko書記長就任。病弱であったため、1985年3月10日に死去。

1984年11月6日 Reagan大統領再選。

1985年3月11日 Gorbachev書記長就任。停滞していたソ連の政治経済の抜本的改革を目指しペレストロイカ(改革)を推進した。

1986年1月28日 アメリカのスペースシャトルチャレンジャー号が射ち上げから73秒後に分解し、7名の乗組員が死亡した(チャレンジャー号爆発事故)。結果、シャトルの打ち上げは中断された。ディスカバリー号が打ち上げられたのは1988年9月29日午前11時37分だった。

1986年4月26日1時23分 ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉が炉心融解メルトダウン)の後に爆発した。この事故の結果、グラスノスチ(情報公開)が進展。

1987年12月8日 アメリカとソ連が中距離核戦力(Intermediate-Range Nuclear Forces)全廃条約調印。射程が500〜5,500kmの範囲の核弾頭、及び通常弾頭を搭載した地上発射型の弾道ミサイルと巡航ミサイルの廃棄を求める内容。条約が定める期限である1991年6月1日までに合計で2,692基の兵器が破壊された。内訳はアメリカ合衆国が846基、ソビエト連邦が1,846基である。またこの条約の下では両方の国家は、互いの軍隊の装備を査察することを許された。

1988年3月 Gorbachevが新ベオグラード宣言を発表。従来のBrezhnev Doctrine(制限主権論)を否定して東欧諸国の自立、民主化を容認。

1988年4月14日 アフガニスタンパキスタンソ連、アメリカの4カ国が、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定(ジュネーヴ協定)」に署名(5月15日発効)。ソ連軍の半数が1988年8月15日までに撤退し、それより9ヶ月以内に全部隊の撤退が完了することが決定される。 

1988年11月8日 アメリカ大統領選で、現職副大統領であったG.H.BushがReagan政策の継承を掲げて当選。

1989年2月15日 ソ連軍のアフガニスタンからの完全撤退が完了。 

1989年6月18日 普通選挙実施により、ポーランド第三共和国成立。

1989年10月23日 ハンガリー共和国憲法施行により、ハンガリー第三共和国成立。

1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊

1989年11月17日 チェコスロバキア社会主義共和国で共産党支配を倒す民主化革命(ビロード革命)勃発。

1989年12月2日〜3日 マルタ島で行われたアメリカとソ連の首脳会談。冷戦の終結を宣言したが、特に何の合意もされなかった。

1989年12月25日 ルーマニア成立。ルーマニア共産党の最高指導者であったNicolae Ceaușescu大統領夫妻が処刑され、ルーマニア社会主義共和国崩壊。

1990年3月11日 リトアニアソ連からの分離・独立を宣言。

1990年5月4日 ラトビアソ連からの分離・独立を宣言。

1990年10月3日 東西ドイツ統一

1991年8月19日 ソ連8月クーデター(ロシア8月革命)勃発。改革派のGorbachevに対し、守旧派が起こしたクーデター。しかし、Boris Yeltsinを中心とした市民の抵抗により失敗に終わった。

1991年8月20日 エストニア共和国ソ連からの分離・独立を宣言。リトアニアラトビアも再独立。

1991年[US215]12月25日【冷戦第三波BOTTOM】ソビエト連邦崩壊。これにより、1917年11月7日のロシア革命十月革命)からロシア内戦を経て1922年12月30日に成立したソビエト連邦は、69年後のクリスマスに崩壊した。

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冷戦第三波に関与したのは、Nixon、Ford、Carter、Reagan、G.H.Bushの5人の大統領だ。

  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)
  • Gerald Rudolph Ford第38代大統領(1974年[US198]8月9日〜1977年[US201]1月20日)
  • James Earl Carter Jr.第39代大統領(1977年[US201]1月20日〜1981年[US205]1月20日)
  • Ronald Wilson Reagan第40代大統領(1981年[US205]1月20日〜1989年[US213]1月20日)
  • George Hebert Bush第41代大統領(1989年[US213]1月20日〜1993年[US217]1月20日)

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冷戦第三波に関与したソ連の書記長は以下の通り。

  • Leonid Il'ich Brezhnev書記長(1964年[US]10月14日〜1982年[US]11月10日)
  • Yurii Vladimirovich Andropov書記長(1982年[US]11月12日〜1984年[US]2月9日)
  • Konstantin Ustinovich Chernenko書記長(1984年[US]2月13日〜1985年[US]3月10日)
  • Mikhail Sergeevich Gorbachev書記長(1985年[US]3月11日〜1991年[US]8月24日)

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

 

アメリカの地政学15:1945-1991冷戦Vol.6

続いて、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第三波】を学ぶ。最初に、【冷静第三波】の緊張が高まっていく過程についてクールにザックリまとめる。

折角のパリ和平協定調印にも関わらず、アメリカはベトナムを放置。南アジアではベトナムラオスカンボジア共産国家が誕生し、中東でもアフガニスタン共産国家が誕生した。米ソデタントの流れは続いていたが、イラン革命を背景としてイスラム原理主義革命がアフガニスタン経由で飛び火してくることを懸念したソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])によって、米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。 

前回までの冷戦:

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。

キューバ危機を受けて、部分的核実験禁止条約が締結されるなどした。J.F.Kennedyが暗殺され、Johsonは(Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続した)ベトナム戦争を拡大したが行き詰まる。Nixonが就任すると、ソ連、中国との緊張緩和を進め、SALT I 妥結(1972年[US196])、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。 

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【冷静第三波】の緊張が高まっていく過程に起こった出来事は以下の通り。

1972年6月17日 ウォーターゲート事件が発覚。民主党選挙対策本部があるウォータゲートビルで5人の男が盗聴器を仕掛けている最中にガードマンに捕まった(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.204)。

1972年11月7日 Nixon大統領再選。

1973年1月27日【冷戦第二波BOTTOM】パリ和平協定調印。

1973年1月29日 Nixon大統領がベトナム戦争終結宣言。3月29日アメリカ軍の撤退完了、ただしアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し残留、軍事物資の供給も継続

1973年7月17日 アフガニスタンでクーデター。王制を廃止し、アフガニスタン共和国成立。

1973年10月6日 第4次中東戦争勃発。6年前の第3次中東戦争イスラエルに占領された領土の奪回を目的としてエジプト・シリア両軍がそれぞれスエズ運河ゴラン高原正面に展開するイスラエル軍に対して攻撃を開始した。

1973年10月16日 石油輸出国機構 (OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は、原油公示価格を21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定する(第1次石油危機)。

1974年8月9日 Nixon大統領辞任、Fordが大統領に昇格。Nixonはアメリカ史上唯一の辞任した大統領である。

1975年[US199]3月10日 ベトナム民主共和国は「アメリカの再介入はない」と判断し、南北ベトナム統一を目指してベトナム共和国軍に対する全面攻撃(Ho Chi Minh作戦)を開始。

1975年4月17日 民主カンボジア成立。カンボジアクメール・ルージュプノンペンを制圧、実権を掌握。

1975年4月30日 サイゴン陥落、ベトナム共和国崩壊。

1975年12月2日 ラオス人民民主共和国成立。1974年に右派、中立派、左派(パテート・ラーオ)連合によるラオス民族連合政府が成立していたが、サイゴン陥落を受けて連合政府が王政の廃止を宣言した。

1976年[US200]7月2日 ベトナム社会主義共和国成立。ベトナム南北統一。

1976年11月2日 Ford大統領が選挙に敗れる。Fordはアメリカ史上唯一の選挙で勝利したことのない大統領である。すなわち、Kennedy暗殺により選挙の洗礼を受けることなく副大統領となり、Nixon辞任によりそのまま大統領に昇格した異例の政治家だった。

1977年1月20日 アメリカ第39代大統領Carter就任

1978年4月27日 アフガニスタンでクーデター(4月革命)。アフガニスタン人民民主党が政権を掌握し、アフガニスタン民主共和国成立。

1978年9月5日 Carter大統領、イスラエル首相、エジプト大統領の三首脳が会談。和平合意に達する(キャンプ・デービッド合意)。

1979年1月1日 米中国交正常化

1979年2月11日 イラン革命勃発。反体制勢力が権力掌握し、パフラヴィー朝滅亡。新米国家だったイランが反米国家になってしまった。

イラン・パフラヴィー朝においては、1951年8月19日に親米英的なMohammad Rezā Shāh Pahlavi皇帝が権力を回復。1955年2月24日にイギリス、トルコ、パキスタンイラク王国と共にバグダード条約を調印し、中東条約機構(Middle East Treaty Organization)を発足させていた。中東条約機構には、アメリカがオブザーバー参加していた。

イラン革命によりイランでの石油生産が中断したことと、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定したことにより、原油価格上昇(第2次石油危機)

1979年4月1日 イラン・イスラーム共和国成立。 

1979年11月4日 イランアメリカ大使館占拠事件勃発(〜1981年1月20日)。イラン元皇帝を受け入れたアメリカに抗議するデモ参加者がアメリカ大使館を占拠し、外交官・海兵隊員・その家族を人質に取って、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しを要求した。Carter大統領の下、アメリカ軍による人質救出作戦は成功せず、元皇帝の死(1980年7月27日)の後、交渉を経て、1981年1月20日Reagan大統領の就任まで人質は解放されなかった。

1979年12月24日【冷戦第三波TOP】ソ連アフガニスタンに侵攻。アメリカはパキスタンを経由して非軍事的物資と活動資金をムジャーヒディーンアラビア語で「ジハードを遂行する者」を意味するムジャーヒドの複数形。この場合は、共産主義政権とソビエト連邦軍に対する抵抗運動の兵士たち)に提供していたが、これら支援は秘密裏に進められており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは避けられていた。ソ連の侵攻により明示的に米ソは対立することとなった。 しかし、イラン革命成功を背景とし、ソ連としてはアフガニスタンでもイスラム原理主義の革命が起こればソ連にも飛び火する危険性があった。

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冷戦第三波に関与したのは、Nixon、Ford、Carter、Reagan、G.H.Bushの5人の大統領だ。

  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)
  • Gerald Rudolph Ford第38代大統領(1974年[US198]8月9日〜1977年[US201]1月20日)
  • James Earl Carter Jr.第39代大統領(1977年[US201]1月20日〜1981年[US205]1月20日)
  • Ronald Wilson Reagan第40代大統領(1981年[US205]1月20日〜1989年[US213]1月20日)
  • George Hebert Bush第41代大統領(1989年[US213]1月20日〜1993年[US217]1月20日)

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冷戦第三波に関与したソ連の書記長は以下の通り。

  • Leonid Il'ich Brezhnev書記長(1964年[US]10月14日〜1982年[US]11月10日)
  • Yurii Vladimirovich Andropov書記長(1982年[US]11月12日〜1984年[US]2月9日)
  • Konstantin Ustinovich Chernenko書記長(1984年[US]2月13日〜1985年[US]3月10日)
  • Mikhail Sergeevich Gorbachev書記長(1985年[US]3月11日〜1991年[US]8月24日)

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

 

アメリカの地政学14:1945-1991冷戦Vol.5

ひきつづき、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第二波】を学ぶ。最初に、【冷静第二波】の対立が緩和していく過程についてクールにザックリまとめる。 

キューバ危機を受けて、部分的核実験禁止条約が締結されるなどした。J.F.Kennedyが暗殺され、Johsonは(Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続した)ベトナム戦争を拡大したが行き詰まる。Nixonが就任すると、ソ連、中国との緊張緩和を進め、SALT I 妥結(1972年[US196])、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。 

前回までの冷戦:

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。 

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【冷静第二波】の対立が緩和していく過程に起こった出来事は以下の通り。アメリカはベトナム戦争の出口が見えず、ソ連プラハの春で共産陣営の結束維持に頭を悩ませ、チャイナはソ連と対立と三者三様の課題を抱えていたところをNixon外交がデタントにつなげた。

1955年10月26日 ベトナム共和国成立。アメリカは軍事支援を開始

1960年11月8日 J.F.Kennedy大統領が当選。

1960年12月20日 NLF(南ベトナム民族解放戦線)結成

1961年1月20日 J.F.Kennedy大統領就任。

1961年5月 アメリカは特殊作戦部隊600人(軍事顧問団)の派遣と軍事物資の支援増強を決定。クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃開始

1962年10月16日〜28日【冷戦第二波TOP】キューバ危機。核戦争は回避され、アメリカとソ連の間で以下が取り決められた。

  • ソ連側はキューバのミサイル基地を撤去
  • アメリカ側もトルコのミサイル基地を撤去
  • アメリカは絶対にキューバに軍事侵攻しない
  • ホットライン開通

キューバ危機について、高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門p.219から以下引用する。

何より「当事者」たる米ソが、身を以て核戦争の危険を知ることとなり、両国の対立関係に微妙な変化をもたらした。

いざというときに領国首脳が直接対話できる「ホットライン」の通信回線が設置されるとともに、両国は、いずれ核開発に歯止めが必要であるという共通見解に至ったのである。

1963年8月5日 アメリカ、イギリス及びソ連が部分的核実験禁止条約(Partial Test Ban Treaty)を締結。正式名を大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約(Treaty Banning Nuclear Weapon Test in the Atmosphere, in outer Space and under Water) と言い、ゆげ氏によると「地下実験はOKだけど、それ以外の空中や水中ではダメ」という内容。核開発が済んでいなかったフランスとチャイナは参加しなかった(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.176-7参照)。

1963年11月22日 J.F.Kennedy暗殺、Johnsonが大統領に昇格。

1964年8月7日 アメリカ上下両院でトンキン湾決議承認。Johnson大統領は実質的な戦時大権を獲得。

1964年10月14日 Khrushchev辞任。Brezhnev書記長が就任。

1964年11月3日 Johnson大統領が再選 

1965年2月7日北爆開始。3月8日アメリカ海兵隊3,500人がダナンに上陸。7月28日アメリカ陸軍の派遣発表

1968年1月5日 チェコスロバキアの変革運動(プラハの春)始まる 

1968年1月29日 ベトナム民主共和国軍と南ベトナム解放民族戦線によるベトナム共和国軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃を実施(テト攻勢)。ゆげ氏によると、アメリカ大統領選挙年において反戦運動を盛り上げ、ベトナム撤退を掲げる候補が有利になることを狙っての作戦だった(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.186参照)。

1968年3月31日 Johnson大統領が大統領選不出馬を表明。

1968年8月20日 ソ連率いるワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキア国境を突破し侵攻し、全土を占領下に置いた。プラハの春に対するソ連の軍事介入。Brezhnev Doctrine(制限主権論)について、3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.365-6から引用する。

社会主義陣営全体の利益は、各国の利益に優先する。ゆえにチェコ=スロヴァキア政府が国を挙げて自由化・民主化を目指しても、我がソ連軍が粉砕する。社会主義陣営の国家は、完全な主権国家ではない。その主権は社会主義全体のために制限されるべきだ。

1968年11月5日 Nixon大統領当選

1968年12月21日 アメリカのアポロ8号が人類初となる有人月周回飛行に成功。

1969年1月20日 Nixon大統領就任

1969年3月2日,15日 アムール川黒竜江)の支流ウスリー川の中州であるダマンスキー島珍宝島)の領有権を巡ってソ連とチャイナの間に大規模な軍事衝突が発生(珍宝島事件、ダマンスキー島事件)。同年8月にも新疆ウイグル自治区で軍事衝突が起こり、中ソの全面戦争や核戦争にエスカレートする重大な危機に発展した。

1969年7月20日 アメリカのアポロ11号が人類初となる月面着陸に成功。J.F.Kennedyが本格始動させたアポロ計画がJohnson、Nixonと引き継がれた。スプートニク・ショックからわずか12年での達成だった。

1969年11月19日 アメリカとソ連ヘルシンキで第一次戦略兵器制限交渉(Strategic Arms Limitation Talks 1, SALT I)開始(〜1972年5月26日)

1971年7月 Henry Kissinger国家安全保障問題担当大統領補佐官が秘密裏にチャイナ訪問

1971年10月25日 アルバニア決議(第26回国際連合総会2758号決議)の採択。当時中華人民共和国の友好国であったアルバニア人民共和国が提案。中華民国(台湾)は国連安保理常任理事国の座を失い、チャイナが国連安保理常任理事国と見なされた。本決議に抗議する形で、中華民国国連を脱退した。

1972年2月21日 Nixon訪中。アメリカとチャイナの関係を対立から和解へと転換。

1972年5月26日 NixonとBrezhnevがモスクワで第一次戦略兵器制限条約(SALT I)に調印。当該条約は、アメリカとソ連保有する弾道ミサイルの数量を追認し、追加を行わない軍備管理を規定したのみで、核弾頭のMIRV化、その数量などに対する制限はなく、ミサイル数もソ連の方が多いものであった。両国のミサイル保有制限数は以下の通り。

なお、第一次戦略兵器制限条約(SALT I)と同時にアメリカとソ連は弾道弾迎撃ミサイル制限条約(Anti-Ballistic Missile Treaty)に調印。両国ともABM配備基地を首都とミサイル基地一つの2箇所に制限する内容。

1972年6月17日 ウォーターゲート事件が発覚。民主党選挙対策本部があるウォータゲートビルで5人の男が盗聴器を仕掛けている最中にガードマンに捕まった(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.204)。

1972年11月7日 Nixon大統領再選。

1973年1月27日【冷戦第二波BOTTOM】パリ和平協定調印。

1973年1月29日Nixon大統領がベトナム戦争終結宣言。3月29日アメリカ軍の撤退完了、ただしアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し残留、軍事物資の供給も継続

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冷戦第二波に関与したのは、Eisenhower、J.F.Kennedy、Johson、Nixonの4人の大統領だ。

  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)
  • John Fitzgerald Kennedy第35代大統領(1961年[US185]1月20日〜1963年[US187]11月22日)
  • Lyndon Baines Johnson第36代大統領(1963年[US187]11月22日〜1969年[US193]1月20日)
  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)

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冷戦第二波に関与したソ連の書記長は以下の通り。

  • Nikita Sergeyevich Khrushchev第一書記(1953年[US177]3月14日筆頭書記、9月7日第一書記〜1964年[US188]10月14日)
  • Leonid Il'ich Brezhnev書記長(1964年[US]10月14日〜1982年[US]11月10日) 

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

 

アメリカの地政学13:1945-1991冷戦Vol.4

続いて、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第二波】を学ぶ。最初に、【冷静第二波】の緊張が高まっていく過程についてクールにザックリまとめる。

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。 

前回までの冷戦:

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

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【冷静第二波】の緊張が高まっていく過程に起こった出来事は以下の通り。

1959年1月1日 キューバ革命成功。革命軍がハバナ占領を果たして革命政権が成立。

1959年[US183]9月25−27日【冷戦第一波BOTTOM】Khrushchev訪米。EisenhowerとKhrushchevとのキャンプデービット会談

1960年5月1日 ソ連を偵察飛行していたアメリカ合衆国偵察機ロッキードU-2が撃墜され、偵察の事実が発覚(U-2撃墜事件)。アメリカはミサイル開発でソ連に差を付けられたため、高高度偵察飛行による徹底監視による安全保障の確保を図っていた。当該事件により、予定されていた米ソ首脳会談が中止された。

1960年11月8日 J.F.Kennedy当選。J.F.Kennedyは史上最年少で当選した(43歳)、初のアイルランドローマ・カトリック教徒の大統領だった。

1961年4月12日 ソ連がボストーク1号により人類初の有人宇宙飛行の成功を発表。ソ連は、ロケットすなわちミサイル(ICBM)を宇宙に上げて地表の狙った場所に正確に落とす技術があると証明したのだ。ちなみに、アメリカが有人宇宙飛行を成功させたのは約1ヶ月遅れの5月5日だった。

1961年1月3日 アメリカがキューバに対して国交断絶を通告。

1961年1月20日 J.F.Kennedy大統領就任。

1961年4月15日〜19日 アメリカCIAの支援の下で、在米亡命キューバ人部隊がキューバに侵攻してキューバ革命政権の打倒を試みたが失敗(ピッグス湾事件)。

1961年5月1日 キューバフィデル・カストロ首相、メーデーの演説でキューバ革命を「社会主義革命である」と宣言。キューバソ連への接近を強めていく。高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門p.217から以下引用する。

すでに太平洋を掌握し、NATO結成に関わることなどによってソ連包囲網を形成していたはずのアメリカだったが、思わぬきっかけで、喉元に社会主義国家が誕生してしまったのだ。

1961年5月25日 J.F.Kennedy大統領が上下両院合同議会で演説し、アポロ計画(人類初の月への有人宇宙飛行計画)の支援を表明。1969年末までに実現するとの公約だった。

1961年6月3日〜4日 J.F.KennedyとKhrushchevがウィーンで首脳会談(ウィーン会談)。

1961年8月13日 東ドイツが東西ベルリン間の通行を全て遮断し、西ベルリンの周囲を全て有刺鉄線で隔離して、コンクリートの壁(ベルリンの壁)の建設を開始。ソ連東ドイツから西ドイツへの人口流出(亡命)を阻止する必要に迫られていた。しかし、Khrushchevは6月のウィーン会談で西ベルリンの空路遮断(東ドイツとの平和条約締結、連合軍の撤兵)を試みたが失敗していた。ベルリンの壁建設に対し、J.F.Kennedyはアメリカ軍の欧州増派で対抗。Khrushchevも東ドイツとの平和条約締結は断念した。

1962年8月 キューバソ連が秘密裏に軍事協力協定を締結。キューバはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に最新兵器の供与を要求していた。ソ連は最新兵器の提供の代わりに秘密裏に核ミサイルをキューバ国内に配備するアナディル作戦を可決。キューバもこれを了承していた。再度、高橋氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門p.217-8から少し長いが引用する。【括弧】内はSynme追記。

ソ連からすれば、アメリカを牽制するのにキューバほど有利な場所はない。キューバに軍事基地を配備すれば、中距離弾道ミサイル【intermediate-range ballistic missile, IRBM。米ソが直接に互いを目標とする大陸間弾道ミサイル(intercontinental ballistic missile, ICBM)には及ばないがヨーロッパからソ連またはその逆を目標とする射程をもつミサイル。】でアメリカ全土が射程距離に入る。

当時のアメリカとソ連の核軍備には大きな開きがあった【1962年9月にケネディ政権はソ連に対してICBMの数で2対1の割合でアメリカが勝っていることを明らかにした】。

そこで、もしソ連キューバにミサイル基地を建設すれば、アメリカとの差を一気に帳消しにできるどころか、形成を逆転する可能性すらある。アメリカにとっては、突然、目の前に銃を突きつけられるようなものだった。

1962年10月16日〜28日【冷戦第二波TOP】キューバ危機。アメリカの海上封鎖に対し、既にソ連を出発していたミサイルを乗せた艦隊が突破を図ったら?と、世界は核戦争の危機に直面した。実際、キューバ上空を偵察していたアメリカ機の撃墜や海上封鎖ラインに近づいたソ連線へのアメリカ軍の威嚇射撃など事態は緊迫していた。

ただし、ことの発端はキューバ革命政権の転覆を目論んだピッグス湾事件だったことは重要だとSynmeは考える。つまり、最初に仕掛けたのはアメリカのJ.F.Kennedyだったということだ。しかし、結果的にベルリン危機でもキューバ危機でも勝者はJ.F.Kennedyであったことも重要な事実でKhrushchevは約2年後に失脚して辞任に至る。

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冷戦第二波に関与したのは、Eisenhower、J.F.Kennedy、Johson、Nixonの4人の大統領だ。

  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)
  • John Fitzgerald Kennedy第35代大統領(1961年[US185]1月20日〜1963年[US187]11月22日)
  • Lyndon Baines Johnson第36代大統領(1963年[US187]11月22日〜1969年[US193]1月20日)
  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)

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冷戦第二波に関与したソ連の書記長は以下の通り。

  • Nikita Sergeyevich Khrushchev第一書記(1953年[US177]3月14日筆頭書記、9月7日第一書記〜1964年[US188]10月14日)
  • Leonid Il'ich Brezhnev書記長(1964年[US]10月14日〜1982年[US]11月10日) 

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

 

アメリカの地政学12:1945-1991冷戦Vol.3

ひきつづき、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第一波】を学ぶ。最初に、【冷静第一波】の対立が緩和していく過程についてクールにザックリまとめる。  

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

前回までの冷戦:

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

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【冷静第一波】の対立が緩和していく過程に起こった出来事は以下の通り。

1950年[US174]6月25日【冷戦第一波TOP】朝鮮戦争の勃発

1950年8月10日 警察予備隊の設置。朝鮮戦争勃発伴う在日米軍出動による日本国内の軍事的空白への対処が目的。ソ連南下や国内の共産勢力が懸念だった。この再軍備が翌年の独立回復につながった。再軍備と独立回復がセットなのは1955年の西ドイツも同様だ。

1951年4月11日 Douglas MacArthur元帥、Truman大統領によって連合国軍最高司令官を罷免される。

1951年8月30日 米比相互防衛条約調印。アメリカとフィリピンの軍事同盟。沖縄、台湾にフィリピンを加えることで、チャイナや北ベトナムを押さえ込むのがアメリカの目的。フィリピン第三共和国は1946年7月4日にアメリカから独立していた。

1951年9月1日 太平洋安全保障条約(Australia, New Zealand, United States Security Treaty)調印。オーストラリア、ニュージーランド及びアメリカの軍事同盟。インドネシアの200万人の共産党員という潜在的脅威に対する防波堤。加えて、日本の再軍備を背景としたアメリカのオーストラリア、ニュージーランドへのコミットという意味合いもある。

1951年9月4日 サンフランシスコ講和会議始まる。

1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約調印、日本が独立回復。同日、日米安全保障条約調印、アメリカ軍の駐留維持と治安出動が定められた。

1952年11月 Eisenhower大統領当選。Eisenhowerは、朝鮮戦争終結を公約して大統領選を戦った。

1953年1月20日 Truman大統領退任。Eisenhower大統領就任。

1953年3月5日 Stalin死去。資本主義陣営に大きな不信感を抱いていたStalinの死亡により、ソ連は集団指導体制に移行し、米ソの緊張は和らいでいった。

1953年3月14日 Khrushchev筆頭書記就任。

1953年7月27日 朝鮮戦争の休戦協定調印。

1953年8月8日 米韓相互防衛条約調印。朝鮮戦争後にアメリカと韓国が結んだ軍事同盟アメリカ軍の韓国への駐留維持と韓国軍の作戦指揮権をひきつづき国連軍すなわちアメリカ軍が持つことが定められた。韓国軍の作戦指揮権は、1978年にできた米韓連合司令部に作戦統制権として継承された。冷戦終結後1993年12月に、平時の作戦統制権は韓国軍に移管。有事の際は韓国軍は引き続き米軍(米韓連合司令部)の指揮下に入ることになっている。戦時作戦統制権についても、2012年に米韓連合司令部から韓国軍に移管される予定となっていたが、2020年代中ごろまで延期されて現在に至っている。

1953年9月7日 Khrushchev第一書記就任。

1954年7月21日 ジュネーブ協定が成立し、第1次インドシナ戦争休戦

1954年9月8日 東南アジア条約機構(Southeast Asia Treaty Organization)調印。フィリピン、タイおよびアメリカ等が結んだベトナムに対抗してインドシナ半島の共産化防止を目的とする軍事同盟。他にパキスタン、オーストラリア、フランス、イギリス、ニュージーランドのの計8ヵ国で組織。1977年6月30日に解散した。

1954年12月2日 米華相互防衛条約調印。アメリカと中華民国の軍事同盟。沖縄、台湾及びフィリピンで、チャイナや北ベトナムを押さえ込むのがアメリカの目的。

1955年2月24日 イギリス、トルコ、パキスタンイラン帝国イラク王国バグダード条約を調印し、中東条約機構(Middle East Treaty Organization)が発足。アメリカがオブザーバー参加。

1955年5月5日 西ドイツが主権の完全回復を宣言し(パリ協定の発効)、ドイツ連邦軍を編成・再軍備NATOに加盟した。西ドイツはソ連とも国交回復。西ドイツの再軍備NATO加盟はチェコスロバキア政変と同じ効果を共産主義陣営に与えた。西ドイツは欧州最大のルール工業地帯を有しており、同地は武器の一大産地。大砲で有名なクルップ社、電気・電子機器に長けるシーメンス社も同地の企業である。背景としては、アジアでチャイナとベトナムを封じ込めるためにフィリピンのアメリカ軍基地を拡充し、在西ドイツ・アメリカ軍をフィリピンに移すことにより生じる西ドイツの軍事的空白への対処が必要だった。

1955年5月14日 ワルシャワ条約機構(Warsaw Treaty Organization)設立。ちなみに同じWTOでも世界貿易機関はWorld Trade Organization。

1955年5月15日 オーストリア国家条約について、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連オーストリアが調印。ドイツとの合併の禁止、核兵器など特殊兵器の禁止、永世中立等を内容とする。永世中立国としてアメリカとソ連が合意したため、オーストリアは統一を維持して国家を回復できた。ゆげ氏は下記のように指摘している。

WW IもWW IIも、兄弟国家であるオーストリアとドイツの協力・一体化が前提にあった。二度の大戦は「ドイツvs全世界」と言っても過言ではない。

(中略)今後またドイツとオーストリアがくっついて第三次世界大戦を引き起こすことがないようにドイツと軍事同盟を結べないようにしたのだった。

1955年7月18日 ジュネーブ四巨頭会談(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の首脳会談)が開かれる。ポツダム会談以来10年振りの首脳会談。特段の成果は出なかったが緊張緩和ムードを醸成した。

1955年10月26日 ベトナム共和国成立

1956年1月27日 東ドイツワルシャワ条約機構に加盟

1956年10月19日 日ソ共同宣言。ソ連は日本を承認し、日ソの国交回復。平和条約締結には至らなかったため、現在も法的にはロシア(ソ連外交を継承)と日本は戦争状態にある。しかし、同年中に日本のUnited Nationsへの加盟が実現した。

1956年2月25日 共産党第20回大会(コミンフォルム解散、スターリン批判)

1956年6月28日 ポズナニで反ソ暴動勃発。ポーランド西部の工業都市ポズナニの労働者が反ソを宣言。ワルシャワ政府側はKhrushchevに従い内戦となったが、勝利した。

1956年10月23日 ハンガリー動乱勃発(〜11月10日)。ハンガリーソ連からの離脱を宣言。ソ連軍が介入・制圧した。

1956年12月18日 日本の連合国憲章(United Nations)加盟  

1957年8月26日  ソ連ICBM(Inter-Continental Ballistic Missile)の発射実験に成功と発表。

1957年10月4日 ソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号」の打ち上げ成功を発表。スプートニク・ショックとも呼ばれるのは、人工衛星の打ち上げ技術と核ミサイルの打ち上げ技術がまったく同じであり、ソ連がアメリカに核ミサイルを打ち込むことが可能になったことを意味したから。ソ連のミサイルがアメリカに先行する背景には1947年のトルコでのアメリカ軍基地設置がある。1949年にはソ連も原爆保有に至っているものの、アメリカ本土は共産主義陣営の飛行場からの航続距離圏外だったため、1947年以来、ソ連だけが核の脅威に怯える状態が続いていたのだ。スプートニク・ショックにより米ソ両国が核の脅威に怯える状態となった。

1958年7月29日 NASANational Aeronautics and Space Administration)の設立

1959年[US183]9月25−27日【冷戦第一波BOTTOM】Khrushchev訪米。EisenhowerとKhrushchevとのキャンプデービット会談

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冷戦第一波に関与したのは、F.Roosevelt、Truman、Eisenhowerの3人の大統領だ。

  • Franklin Delano Roosevelt第32代大統領(1933年[US157]3月4日〜1945年[US169]4月12日)
  • Harry S. Truman第33代大統領(1945年[US169]4月12日〜1953年[US177]1月20日)
  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)

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冷戦第一波に関与したソ連の書記長は以下の通り。

  • Joseph Vissarionovich Stalin書記長(1922年[US146]4月3日〜1953年[US177]3月5日)
  • Georgy Maximilianovich Malenkov筆頭書記(1953年[US177]3月5日〜13日)
  • Nikita Sergeyevich Khrushchev第一書記(1953年[US177]3月14日筆頭書記、9月7日第一書記〜1964年[US188]10月14日) 

 

文責:鵄士縦七 

 

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