Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学29:1860北京条約/1856-1860アロー戦争(第2次アヘン戦争)

今回もロシアの観点からアロー戦争を学ぶ。アイグン条約の2年後、戦わずしてロシアは北京条約も締結する。最初にクールにザックリまとめる。 

1860年[US084]ロシアは清と北京条約を締結して沿海州を獲得。ロシアは沿海州南部にウラジオストクを建設し、遂に不凍港を手に入れた。

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アロー戦争(第2次アヘン戦争、1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月)の講和条約である北京条約だが、イギリス・フランス第二帝政と清が締結したのとは別に、ロシアも清と北京条約(1860年[US084]11月14日)を結ぶことに成功した。

ロシアはイギリス・フランス第二帝政と清の間の調停に入った(だけ)なのに、領土を獲得しただけでなく不凍港のオマケ付き。アイグン条約もそうだが、ロシアの清に対する外交は極めてスムーズに進んでいる。Synmeの勝手な想像だが、オスマン帝国を巡る外交と比較すると、欧州から遠く離れた極東においてはイギリス海軍、フランス陸軍の影響力が相対的に低く、国境を接し陸軍で圧力をかけることができるロシアの存在感が相対的に高いようだ。

さて、条約によってロシアは沿海州ウスリー川以東の外満州)を獲得した。この領土はアイグン条約で共同管理地とされていたものである。

ウラジオストク沿海州南部にロシアが建設した港湾都市だが、ウラジ『支配する』ヴォストーク『東』という名前が意味する通りロシアの極東植民地化の拠点として建設された。造船所とドックが建造され、ウラジオストク巡洋艦隊が置かれることになる。

もう1つ重要なことがある。北京条約によってトルキスタン(地図)の境界確定が合意された。この後タルバガタイ条約(1864年[US088])、イリ条約(1881年[US105])等で清は領土を割譲して行くことになるが、Synmeは別途学ぶ。加えて、イリ、タルバガタイ、カシュガルウランバートルにロシア領事館を設置することも承認された。

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1856年[US080]イギリスはアロー号事件を口実にフランスと共同で開戦。1858年[US082]清に勝利して天津条約を締結するが清が批准を拒否。1860年[US084]イギリス・フランス連合軍は北京を占領して北京条約を締結。清は牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、汕頭、瓊州、南京、天津を開港させられた。イギリスは九竜半島南部を獲得した。

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ネルチンスク条約(1689年[bUS087])では、ロシアと清の国境をアルグン川・ゴルビツァ川とスタノヴォイ山脈の線に定めた。対等条約であり、ロシアは不凍港を得られなかった。

ネルチンスク条約とアイグン条約・北京条約との国境比較

アムール川と支流 

 

文責:鵄士縦七