Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学36:1900アムール川事件(1900-1901義和団の乱)

続けてチャイナ分割(瓜分)を学ぶ。チャイナに顔を出さなかったアメリカと、しっかりチャイナでの存在感は維持しつつも裏でアフリカ進出に力を削がれていたイギリスを学んだところで、チャイナ分割(瓜分)の終焉を学ぶわけである。今回は義和団の乱をロシアの地政学の観点から学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1900年[US124]8月ロシアは義和団の乱に乗じて江東六十四屯からチャイナ人居留民を一掃(アムール川事件)、アムール川東岸全域を支配下に置いた。

f:id:synme:20190106211942j:plain

そもそも、アロー戦争(第2次アヘン戦争、1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月)の最中に締結したアイグン条約(1858年[US082]5月28日)に基づき、ロシアは清国からアムール川東岸(左岸)を獲得していた。

しかし、このアムール川東岸において、チャイナ人が多数居留していた「江東六十四屯」という地域だけは、例外的に清国の管理下に置かれていた。

そして時代が流れ、義和団の乱(1900年[US124]6月20日〜1901年[US125]9月7日)が勃発すると、この「江東六十四屯(こうとうろくじゅうしとん)」の近郊にある都市ブラゴヴェシチェンスク (海蘭泡)が義和団によって占領された。

ロシアは8カ国連合軍を相手に戦うチャイナに満州を省みる余裕はないと見込み、チャンスと捉えた。ロシア軍は、1900年[US124]7月16日にブラゴヴェシチェンスクを奪還した上で、8月2日〜3日には、江東六十四屯からチャイナ人居留民を一掃(アムール川事件)してアムール川東岸全域を支配下に置いた。

このアムール川事件の際に、ロシア兵約2,000名によってチャイナ人約25,000名が虐殺され、遺体がアムール川に投げ捨てられたようだ。

 

—-

synme.hatenablog.com

1858年[US082]ロシアは清とアイグン条約を締結し、アムール川東岸を獲得。沿海州を共同管理地とし、アムール川の航行権を認めさせた。

synme.hatenablog.com出

1860年[US084]ロシアは清と北京条約を締結して沿海州を獲得。ロシアは沿海州南部にウラジオストクを建設し、遂に不凍港を手に入れた。 

 

文責:鵄士縦七