ニッポンの地政学62:1916.7.3第4次日露協約
今回はニッポンの地政学として第4次日露協約の締結を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。
1916年[US140]7月3日ニッポンとロシアは第4次日露協約を締結し、チャイナにおけるお互いの権益を相互に承認した。
20世紀初頭にニッポンの外交政策を支えていたのは、日英同盟と日露協約であった。そう、20世紀後半のニッポンの外交政策の基本が日米同盟であることは、明治維新後の近現代ニッポンとしては、どちらかというと「通常」状態であり、1930年代・1940年代の外交的孤立は「特殊」状態であったのだ。
少なくとも、その「特殊」状態下でニッポン史上最大の「敗戦」を経験したことは覚えておいたほうが良い。
さて、簡単に日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)後のニッポンとロシアの外交関係を復習しておく。まず、1907年[US131]7月30日第1次日露協約締結。秘密協定により、ニッポンの南満州と大韓帝国での権益とロシアの北満州と外蒙古での権益を相互に承認した。次いで、1910年[US134]7月4日第2次日露協約締結。秘密協定によりアメリカの満州鉄道中立化提案を拒否し、満州におけるそれぞれの権益を確保することを確認した。そして、1912年[US136]7月8日第3次日露協約を締結し、内蒙古東部と西部の権益を相互に承認した。
そして、1914年[US138]7月28日第一次世界大戦が勃発(〜1918年[US142]11月11日)。ロシアは8月1日から参戦(ドイツ第二帝国が、セルビア支援のために総動員を掛けたロシアに7月31日最後通牒を発し、8月1日宣戦布告)し、ニッポンも8月23日から参戦(8月4日イギリスの宣戦布告にも関わらずニッポンは中立を宣言。しかし、ニッポンはドイツ第二帝国に対して8月15日最後通牒を発し、8月23日宣戦布告)していた。
極東のチャイナにおける第一次世界大戦の影響として、 1914年[US138]10月31日〜11月7日ニッポンとイギリスの連合軍がドイツ第二帝国東洋艦隊の拠点である青島を攻略し、翌1915年[US139]1月18日ニッポンが中華民国に対し対華21カ条要求(南満州及び東部内蒙古についての権益を強化し、ドイツの権益(山東省など)継承や製鉄会社の合弁化など新しい権益拡大を目指す内容)を通告していたが、1916年[US140]7月3日ニッポンとロシアは第4次日露協約を締結し、チャイナにおけるお互いの権益を相互に承認した。
まあ、つまり、第一次世界大戦の勃発にも関わらず、ニッポンはロシアとの協調的な外交関係を維持することに成功していたということだ。ロシアとしては極東の権益について心配することなく対オーストリア、対ドイツ(後に、対オスマン帝国、対ブルガリア)の戦争に注力できたことになる。
「たられば」ではあるが、このままロシアで革命が起こらなければ、ニッポンは極東においてロシアやイギリスと比較的対等に近い外交関係を積み重ねることができて、国際外交の「経験値」を上げることができたかもしれない。
しかし、列強が全世界で繰り広げた植民地争奪戦が第一次世界大戦を引き起こしたのが必然であったように、第一次世界大戦の勃発がロシアにおける共産革命につながりロシアや敗戦後のドイツにおける近代国家における独裁体制へとつながることも必然であった。
こうして、ニッポンは外交基軸の1つである日露協約を第4次までしか更新できず、チャイナ権益を虎視眈々と狙うアメリカの狙い通り、極東における外交的安定を失ってしまうことになる。でもまあ、それは、第一次世界大戦後の話。
文責:鵄士縦七