Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

アメリカの地政学14:1945-1991冷戦Vol.5

ひきつづき、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第二波】を学ぶ。最初に、【冷静第二波】の対立が緩和していく過程についてクールにザックリまとめる。 

キューバ危機を受けて、部分的核実験禁止条約が締結されるなどした。J.F.Kennedyが暗殺され、Johsonは(Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続した)ベトナム戦争を拡大したが行き詰まる。Nixonが就任すると、ソ連、中国との緊張緩和を進め、SALT I 妥結(1972年[US196])、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。 

前回までの冷戦:

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。 

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【冷静第二波】の対立が緩和していく過程に起こった出来事は以下の通り。アメリカはベトナム戦争の出口が見えず、ソ連プラハの春で共産陣営の結束維持に頭を悩ませ、チャイナはソ連と対立と三者三様の課題を抱えていたところをNixon外交がデタントにつなげた。

1955年10月26日 ベトナム共和国成立。アメリカは軍事支援を開始

1960年11月8日 J.F.Kennedy大統領が当選。

1960年12月20日 NLF(南ベトナム民族解放戦線)結成

1961年1月20日 J.F.Kennedy大統領就任。

1961年5月 アメリカは特殊作戦部隊600人(軍事顧問団)の派遣と軍事物資の支援増強を決定。クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃開始

1962年10月16日〜28日【冷戦第二波TOP】キューバ危機。核戦争は回避され、アメリカとソ連の間で以下が取り決められた。

  • ソ連側はキューバのミサイル基地を撤去
  • アメリカ側もトルコのミサイル基地を撤去
  • アメリカは絶対にキューバに軍事侵攻しない
  • ホットライン開通

キューバ危機について、高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門p.219から以下引用する。

何より「当事者」たる米ソが、身を以て核戦争の危険を知ることとなり、両国の対立関係に微妙な変化をもたらした。

いざというときに領国首脳が直接対話できる「ホットライン」の通信回線が設置されるとともに、両国は、いずれ核開発に歯止めが必要であるという共通見解に至ったのである。

1963年8月5日 アメリカ、イギリス及びソ連が部分的核実験禁止条約(Partial Test Ban Treaty)を締結。正式名を大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約(Treaty Banning Nuclear Weapon Test in the Atmosphere, in outer Space and under Water) と言い、ゆげ氏によると「地下実験はOKだけど、それ以外の空中や水中ではダメ」という内容。核開発が済んでいなかったフランスとチャイナは参加しなかった(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.176-7参照)。

1963年11月22日 J.F.Kennedy暗殺、Johnsonが大統領に昇格。

1964年8月7日 アメリカ上下両院でトンキン湾決議承認。Johnson大統領は実質的な戦時大権を獲得。

1964年10月14日 Khrushchev辞任。Brezhnev書記長が就任。

1964年11月3日 Johnson大統領が再選 

1965年2月7日北爆開始。3月8日アメリカ海兵隊3,500人がダナンに上陸。7月28日アメリカ陸軍の派遣発表

1968年1月5日 チェコスロバキアの変革運動(プラハの春)始まる 

1968年1月29日 ベトナム民主共和国軍と南ベトナム解放民族戦線によるベトナム共和国軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃を実施(テト攻勢)。ゆげ氏によると、アメリカ大統領選挙年において反戦運動を盛り上げ、ベトナム撤退を掲げる候補が有利になることを狙っての作戦だった(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.186参照)。

1968年3月31日 Johnson大統領が大統領選不出馬を表明。

1968年8月20日 ソ連率いるワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキア国境を突破し侵攻し、全土を占領下に置いた。プラハの春に対するソ連の軍事介入。Brezhnev Doctrine(制限主権論)について、3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.365-6から引用する。

社会主義陣営全体の利益は、各国の利益に優先する。ゆえにチェコ=スロヴァキア政府が国を挙げて自由化・民主化を目指しても、我がソ連軍が粉砕する。社会主義陣営の国家は、完全な主権国家ではない。その主権は社会主義全体のために制限されるべきだ。

1968年11月5日 Nixon大統領当選

1968年12月21日 アメリカのアポロ8号が人類初となる有人月周回飛行に成功。

1969年1月20日 Nixon大統領就任

1969年3月2日,15日 アムール川黒竜江)の支流ウスリー川の中州であるダマンスキー島珍宝島)の領有権を巡ってソ連とチャイナの間に大規模な軍事衝突が発生(珍宝島事件、ダマンスキー島事件)。同年8月にも新疆ウイグル自治区で軍事衝突が起こり、中ソの全面戦争や核戦争にエスカレートする重大な危機に発展した。

1969年7月20日 アメリカのアポロ11号が人類初となる月面着陸に成功。J.F.Kennedyが本格始動させたアポロ計画がJohnson、Nixonと引き継がれた。スプートニク・ショックからわずか12年での達成だった。

1969年11月19日 アメリカとソ連ヘルシンキで第一次戦略兵器制限交渉(Strategic Arms Limitation Talks 1, SALT I)開始(〜1972年5月26日)

1971年7月 Henry Kissinger国家安全保障問題担当大統領補佐官が秘密裏にチャイナ訪問

1971年10月25日 アルバニア決議(第26回国際連合総会2758号決議)の採択。当時中華人民共和国の友好国であったアルバニア人民共和国が提案。中華民国(台湾)は国連安保理常任理事国の座を失い、チャイナが国連安保理常任理事国と見なされた。本決議に抗議する形で、中華民国国連を脱退した。

1972年2月21日 Nixon訪中。アメリカとチャイナの関係を対立から和解へと転換。

1972年5月26日 NixonとBrezhnevがモスクワで第一次戦略兵器制限条約(SALT I)に調印。当該条約は、アメリカとソ連保有する弾道ミサイルの数量を追認し、追加を行わない軍備管理を規定したのみで、核弾頭のMIRV化、その数量などに対する制限はなく、ミサイル数もソ連の方が多いものであった。両国のミサイル保有制限数は以下の通り。

なお、第一次戦略兵器制限条約(SALT I)と同時にアメリカとソ連は弾道弾迎撃ミサイル制限条約(Anti-Ballistic Missile Treaty)に調印。両国ともABM配備基地を首都とミサイル基地一つの2箇所に制限する内容。

1972年6月17日 ウォーターゲート事件が発覚。民主党選挙対策本部があるウォータゲートビルで5人の男が盗聴器を仕掛けている最中にガードマンに捕まった(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.204)。

1972年11月7日 Nixon大統領再選。

1973年1月27日【冷戦第二波BOTTOM】パリ和平協定調印。

1973年1月29日Nixon大統領がベトナム戦争終結宣言。3月29日アメリカ軍の撤退完了、ただしアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し残留、軍事物資の供給も継続

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冷戦第二波に関与したのは、Eisenhower、J.F.Kennedy、Johson、Nixonの4人の大統領だ。

  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)
  • John Fitzgerald Kennedy第35代大統領(1961年[US185]1月20日〜1963年[US187]11月22日)
  • Lyndon Baines Johnson第36代大統領(1963年[US187]11月22日〜1969年[US193]1月20日)
  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)

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冷戦第二波に関与したソ連の書記長は以下の通り。

  • Nikita Sergeyevich Khrushchev第一書記(1953年[US177]3月14日筆頭書記、9月7日第一書記〜1964年[US188]10月14日)
  • Leonid Il'ich Brezhnev書記長(1964年[US]10月14日〜1982年[US]11月10日) 

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

 

アメリカの地政学13:1945-1991冷戦Vol.4

続いて、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第二波】を学ぶ。最初に、【冷静第二波】の緊張が高まっていく過程についてクールにザックリまとめる。

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。 

前回までの冷戦:

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

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【冷静第二波】の緊張が高まっていく過程に起こった出来事は以下の通り。

1959年1月1日 キューバ革命成功。革命軍がハバナ占領を果たして革命政権が成立。

1959年[US183]9月25−27日【冷戦第一波BOTTOM】Khrushchev訪米。EisenhowerとKhrushchevとのキャンプデービット会談

1960年5月1日 ソ連を偵察飛行していたアメリカ合衆国偵察機ロッキードU-2が撃墜され、偵察の事実が発覚(U-2撃墜事件)。アメリカはミサイル開発でソ連に差を付けられたため、高高度偵察飛行による徹底監視による安全保障の確保を図っていた。当該事件により、予定されていた米ソ首脳会談が中止された。

1960年11月8日 J.F.Kennedy当選。J.F.Kennedyは史上最年少で当選した(43歳)、初のアイルランドローマ・カトリック教徒の大統領だった。

1961年4月12日 ソ連がボストーク1号により人類初の有人宇宙飛行の成功を発表。ソ連は、ロケットすなわちミサイル(ICBM)を宇宙に上げて地表の狙った場所に正確に落とす技術があると証明したのだ。ちなみに、アメリカが有人宇宙飛行を成功させたのは約1ヶ月遅れの5月5日だった。

1961年1月3日 アメリカがキューバに対して国交断絶を通告。

1961年1月20日 J.F.Kennedy大統領就任。

1961年4月15日〜19日 アメリカCIAの支援の下で、在米亡命キューバ人部隊がキューバに侵攻してキューバ革命政権の打倒を試みたが失敗(ピッグス湾事件)。

1961年5月1日 キューバフィデル・カストロ首相、メーデーの演説でキューバ革命を「社会主義革命である」と宣言。キューバソ連への接近を強めていく。高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門p.217から以下引用する。

すでに太平洋を掌握し、NATO結成に関わることなどによってソ連包囲網を形成していたはずのアメリカだったが、思わぬきっかけで、喉元に社会主義国家が誕生してしまったのだ。

1961年5月25日 J.F.Kennedy大統領が上下両院合同議会で演説し、アポロ計画(人類初の月への有人宇宙飛行計画)の支援を表明。1969年末までに実現するとの公約だった。

1961年6月3日〜4日 J.F.KennedyとKhrushchevがウィーンで首脳会談(ウィーン会談)。

1961年8月13日 東ドイツが東西ベルリン間の通行を全て遮断し、西ベルリンの周囲を全て有刺鉄線で隔離して、コンクリートの壁(ベルリンの壁)の建設を開始。ソ連東ドイツから西ドイツへの人口流出(亡命)を阻止する必要に迫られていた。しかし、Khrushchevは6月のウィーン会談で西ベルリンの空路遮断(東ドイツとの平和条約締結、連合軍の撤兵)を試みたが失敗していた。ベルリンの壁建設に対し、J.F.Kennedyはアメリカ軍の欧州増派で対抗。Khrushchevも東ドイツとの平和条約締結は断念した。

1962年8月 キューバソ連が秘密裏に軍事協力協定を締結。キューバはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に最新兵器の供与を要求していた。ソ連は最新兵器の提供の代わりに秘密裏に核ミサイルをキューバ国内に配備するアナディル作戦を可決。キューバもこれを了承していた。再度、高橋氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門p.217-8から少し長いが引用する。【括弧】内はSynme追記。

ソ連からすれば、アメリカを牽制するのにキューバほど有利な場所はない。キューバに軍事基地を配備すれば、中距離弾道ミサイル【intermediate-range ballistic missile, IRBM。米ソが直接に互いを目標とする大陸間弾道ミサイル(intercontinental ballistic missile, ICBM)には及ばないがヨーロッパからソ連またはその逆を目標とする射程をもつミサイル。】でアメリカ全土が射程距離に入る。

当時のアメリカとソ連の核軍備には大きな開きがあった【1962年9月にケネディ政権はソ連に対してICBMの数で2対1の割合でアメリカが勝っていることを明らかにした】。

そこで、もしソ連キューバにミサイル基地を建設すれば、アメリカとの差を一気に帳消しにできるどころか、形成を逆転する可能性すらある。アメリカにとっては、突然、目の前に銃を突きつけられるようなものだった。

1962年10月16日〜28日【冷戦第二波TOP】キューバ危機。アメリカの海上封鎖に対し、既にソ連を出発していたミサイルを乗せた艦隊が突破を図ったら?と、世界は核戦争の危機に直面した。実際、キューバ上空を偵察していたアメリカ機の撃墜や海上封鎖ラインに近づいたソ連線へのアメリカ軍の威嚇射撃など事態は緊迫していた。

ただし、ことの発端はキューバ革命政権の転覆を目論んだピッグス湾事件だったことは重要だとSynmeは考える。つまり、最初に仕掛けたのはアメリカのJ.F.Kennedyだったということだ。しかし、結果的にベルリン危機でもキューバ危機でも勝者はJ.F.Kennedyであったことも重要な事実でKhrushchevは約2年後に失脚して辞任に至る。

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冷戦第二波に関与したのは、Eisenhower、J.F.Kennedy、Johson、Nixonの4人の大統領だ。

  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)
  • John Fitzgerald Kennedy第35代大統領(1961年[US185]1月20日〜1963年[US187]11月22日)
  • Lyndon Baines Johnson第36代大統領(1963年[US187]11月22日〜1969年[US193]1月20日)
  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)

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冷戦第二波に関与したソ連の書記長は以下の通り。

  • Nikita Sergeyevich Khrushchev第一書記(1953年[US177]3月14日筆頭書記、9月7日第一書記〜1964年[US188]10月14日)
  • Leonid Il'ich Brezhnev書記長(1964年[US]10月14日〜1982年[US]11月10日) 

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

 

アメリカの地政学12:1945-1991冷戦Vol.3

ひきつづき、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第一波】を学ぶ。最初に、【冷静第一波】の対立が緩和していく過程についてクールにザックリまとめる。  

Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連ICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。

前回までの冷戦:

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。

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【冷静第一波】の対立が緩和していく過程に起こった出来事は以下の通り。

1950年[US174]6月25日【冷戦第一波TOP】朝鮮戦争の勃発

1950年8月10日 警察予備隊の設置。朝鮮戦争勃発伴う在日米軍出動による日本国内の軍事的空白への対処が目的。ソ連南下や国内の共産勢力が懸念だった。この再軍備が翌年の独立回復につながった。再軍備と独立回復がセットなのは1955年の西ドイツも同様だ。

1951年4月11日 Douglas MacArthur元帥、Truman大統領によって連合国軍最高司令官を罷免される。

1951年8月30日 米比相互防衛条約調印。アメリカとフィリピンの軍事同盟。沖縄、台湾にフィリピンを加えることで、チャイナや北ベトナムを押さえ込むのがアメリカの目的。フィリピン第三共和国は1946年7月4日にアメリカから独立していた。

1951年9月1日 太平洋安全保障条約(Australia, New Zealand, United States Security Treaty)調印。オーストラリア、ニュージーランド及びアメリカの軍事同盟。インドネシアの200万人の共産党員という潜在的脅威に対する防波堤。加えて、日本の再軍備を背景としたアメリカのオーストラリア、ニュージーランドへのコミットという意味合いもある。

1951年9月4日 サンフランシスコ講和会議始まる。

1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約調印、日本が独立回復。同日、日米安全保障条約調印、アメリカ軍の駐留維持と治安出動が定められた。

1952年11月 Eisenhower大統領当選。Eisenhowerは、朝鮮戦争終結を公約して大統領選を戦った。

1953年1月20日 Truman大統領退任。Eisenhower大統領就任。

1953年3月5日 Stalin死去。資本主義陣営に大きな不信感を抱いていたStalinの死亡により、ソ連は集団指導体制に移行し、米ソの緊張は和らいでいった。

1953年3月14日 Khrushchev筆頭書記就任。

1953年7月27日 朝鮮戦争の休戦協定調印。

1953年8月8日 米韓相互防衛条約調印。朝鮮戦争後にアメリカと韓国が結んだ軍事同盟アメリカ軍の韓国への駐留維持と韓国軍の作戦指揮権をひきつづき国連軍すなわちアメリカ軍が持つことが定められた。韓国軍の作戦指揮権は、1978年にできた米韓連合司令部に作戦統制権として継承された。冷戦終結後1993年12月に、平時の作戦統制権は韓国軍に移管。有事の際は韓国軍は引き続き米軍(米韓連合司令部)の指揮下に入ることになっている。戦時作戦統制権についても、2012年に米韓連合司令部から韓国軍に移管される予定となっていたが、2020年代中ごろまで延期されて現在に至っている。

1953年9月7日 Khrushchev第一書記就任。

1954年7月21日 ジュネーブ協定が成立し、第1次インドシナ戦争休戦

1954年9月8日 東南アジア条約機構(Southeast Asia Treaty Organization)調印。フィリピン、タイおよびアメリカ等が結んだベトナムに対抗してインドシナ半島の共産化防止を目的とする軍事同盟。他にパキスタン、オーストラリア、フランス、イギリス、ニュージーランドのの計8ヵ国で組織。1977年6月30日に解散した。

1954年12月2日 米華相互防衛条約調印。アメリカと中華民国の軍事同盟。沖縄、台湾及びフィリピンで、チャイナや北ベトナムを押さえ込むのがアメリカの目的。

1955年2月24日 イギリス、トルコ、パキスタンイラン帝国イラク王国バグダード条約を調印し、中東条約機構(Middle East Treaty Organization)が発足。アメリカがオブザーバー参加。

1955年5月5日 西ドイツが主権の完全回復を宣言し(パリ協定の発効)、ドイツ連邦軍を編成・再軍備NATOに加盟した。西ドイツはソ連とも国交回復。西ドイツの再軍備NATO加盟はチェコスロバキア政変と同じ効果を共産主義陣営に与えた。西ドイツは欧州最大のルール工業地帯を有しており、同地は武器の一大産地。大砲で有名なクルップ社、電気・電子機器に長けるシーメンス社も同地の企業である。背景としては、アジアでチャイナとベトナムを封じ込めるためにフィリピンのアメリカ軍基地を拡充し、在西ドイツ・アメリカ軍をフィリピンに移すことにより生じる西ドイツの軍事的空白への対処が必要だった。

1955年5月14日 ワルシャワ条約機構(Warsaw Treaty Organization)設立。ちなみに同じWTOでも世界貿易機関はWorld Trade Organization。

1955年5月15日 オーストリア国家条約について、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連オーストリアが調印。ドイツとの合併の禁止、核兵器など特殊兵器の禁止、永世中立等を内容とする。永世中立国としてアメリカとソ連が合意したため、オーストリアは統一を維持して国家を回復できた。ゆげ氏は下記のように指摘している。

WW IもWW IIも、兄弟国家であるオーストリアとドイツの協力・一体化が前提にあった。二度の大戦は「ドイツvs全世界」と言っても過言ではない。

(中略)今後またドイツとオーストリアがくっついて第三次世界大戦を引き起こすことがないようにドイツと軍事同盟を結べないようにしたのだった。

1955年7月18日 ジュネーブ四巨頭会談(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の首脳会談)が開かれる。ポツダム会談以来10年振りの首脳会談。特段の成果は出なかったが緊張緩和ムードを醸成した。

1955年10月26日 ベトナム共和国成立

1956年1月27日 東ドイツワルシャワ条約機構に加盟

1956年10月19日 日ソ共同宣言。ソ連は日本を承認し、日ソの国交回復。平和条約締結には至らなかったため、現在も法的にはロシア(ソ連外交を継承)と日本は戦争状態にある。しかし、同年中に日本のUnited Nationsへの加盟が実現した。

1956年2月25日 共産党第20回大会(コミンフォルム解散、スターリン批判)

1956年6月28日 ポズナニで反ソ暴動勃発。ポーランド西部の工業都市ポズナニの労働者が反ソを宣言。ワルシャワ政府側はKhrushchevに従い内戦となったが、勝利した。

1956年10月23日 ハンガリー動乱勃発(〜11月10日)。ハンガリーソ連からの離脱を宣言。ソ連軍が介入・制圧した。

1956年12月18日 日本の連合国憲章(United Nations)加盟  

1957年8月26日  ソ連ICBM(Inter-Continental Ballistic Missile)の発射実験に成功と発表。

1957年10月4日 ソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号」の打ち上げ成功を発表。スプートニク・ショックとも呼ばれるのは、人工衛星の打ち上げ技術と核ミサイルの打ち上げ技術がまったく同じであり、ソ連がアメリカに核ミサイルを打ち込むことが可能になったことを意味したから。ソ連のミサイルがアメリカに先行する背景には1947年のトルコでのアメリカ軍基地設置がある。1949年にはソ連も原爆保有に至っているものの、アメリカ本土は共産主義陣営の飛行場からの航続距離圏外だったため、1947年以来、ソ連だけが核の脅威に怯える状態が続いていたのだ。スプートニク・ショックにより米ソ両国が核の脅威に怯える状態となった。

1958年7月29日 NASANational Aeronautics and Space Administration)の設立

1959年[US183]9月25−27日【冷戦第一波BOTTOM】Khrushchev訪米。EisenhowerとKhrushchevとのキャンプデービット会談

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冷戦第一波に関与したのは、F.Roosevelt、Truman、Eisenhowerの3人の大統領だ。

  • Franklin Delano Roosevelt第32代大統領(1933年[US157]3月4日〜1945年[US169]4月12日)
  • Harry S. Truman第33代大統領(1945年[US169]4月12日〜1953年[US177]1月20日)
  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)

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冷戦第一波に関与したソ連の書記長は以下の通り。

  • Joseph Vissarionovich Stalin書記長(1922年[US146]4月3日〜1953年[US177]3月5日)
  • Georgy Maximilianovich Malenkov筆頭書記(1953年[US177]3月5日〜13日)
  • Nikita Sergeyevich Khrushchev第一書記(1953年[US177]3月14日筆頭書記、9月7日第一書記〜1964年[US188]10月14日) 

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

 

 

 

アメリカの地政学11:1945-1991冷戦Vol.2

前置きが長くなってしまったが、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第一波】を学ぶ。最初に、【冷静第一波】の緊張が高まっていく過程についてクールにザックリまとめる。

第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。 

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【冷静第一波】の緊張が高まっていく過程に起こった出来事は以下の通り。

1945年[US169]2月4日〜11日 アメリカF.Roosevelt、イギリスSir Winston Leonard Spencer-Churchill、ソ連Stalinの首脳会談(ヤルタ会談)が行われた。ドイツのアメリカ、イギリス、ソ連、フランスによる分割統治、ポーランドの国境策定、バルト三国ソ連影響下に置かれること、戦後に設置される予定の安全保障理事会においてアメリカ、イギリス、ソ連、フランス、中華民国が拒否権を持つこと等が取り決められた。アメリカF.Rooseveltとソ連Stalinはヤルタ秘密協定も締結し、ドイツ敗戦後90日以内のソ連の対日参戦、南樺太と千島列島のソ連への帰属、朝鮮半島北緯38度線での分断、モンゴル人民共和国の現状維持などを合意した。

ヤルタ会談は勝者の会談であったが、冷戦は第二戦線形成問題として既に始まっていた。アメリカの参戦は真珠湾攻撃翌日の1941年12月8日だったが、連合軍のノルマンディー上陸作戦が実行されたのは1944年6月6日。ロシアがドイツと1941年6月22日(ナチスドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻)から丸3年戦い続けた末である。イギリスも1940年6月4日のダンケルク撤退以来約4年振りの再上陸であった。更に7月25日にコブラ作戦が実行されて連合軍がパリ方面へ進撃を開始するまで約2ヶ月を要した。

1945年[US169]4月1日 アメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍が沖縄に上陸して沖縄戦勃発(〜6月23日沖縄陥落)。

1945年[US169]4月12日 F.Rooseveltが死去。同日、副大統領Harry S. Trumanが昇格して第33代大統領に就任した。

1945年[US169]5月2日 ソ連軍がベルリン占領。5月8日にドイツが降伏した。結果論だが、ノルマンディー上陸作戦からたった11ヶ月後だ。ソ連の死傷者数2,060万人が米英の死傷者数合計211万人(イギリス98万人、アメリカ113万人)の約10倍であること(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.45参照)と考え併せると第ニ戦線形成問題は興味深い。Synmeはもう少し学ぶ必要を感じている。

1945年[US169]7月26日 アメリカ、イギリス、中華民国ポツダム宣言を発表(参考:1943年12月1日アメリカ、イギリス、中華民国カイロ宣言を発表)。

1945年[US169]8月6日午前08時15分 広島に原爆投下。9日午前11時02分には長崎にも原爆投下。Trumanによるソ連に対する威嚇のために広島で9−12万人(1945年12月までの推定)、長崎で約7万人の民間人が死んだ(参考:同じくアメリカによる東京大空襲(1944年11月14日〜、1945年3月10日の下町空襲を指すことも多い)の死者は8−10万人。ナチスドイツによるロンドン大空襲(1940年9月7日〜1941年5月10日)の死者は4.3万人)。

1945年[US169]8月8日 ヤルタ秘密協定に従ってソ連が日ソ中立条約を破棄して、対日宣戦布告。8月9日満州国に侵攻した。9月5日まで続いた戦闘で、ソ連南樺太、千島列島、満州朝鮮半島北部を支配下に置いたが、北海道上陸は実行されなかった。

1945年[US169]8月14日 日本がポツダム宣言を受諾、翌15日に玉音放送で国民に周知された。9月2日に日本が同宣言に調印した。

1947年3月12日 Trumanが共産主義封じ込め政策(Truman Doctrine)を発表。介入を続けられなくなったイギリスに代わり、アメリカがギリシャ、トルコに経済・軍事援助を行うことを内容とする。ギリシャ、トルコにアメリカ軍基地を設置。

1947年6月5日 欧州復興計画(通称マーシャルプラン)発表。マーシャルプランは東欧諸国も支援対象に含んでいた。

1947年10月5日 コミンフォルム共産党・労働者党情報局(Communist Information Bureau))設立の発表。ソ連コミンフォルムを通して欧州復興計画(Marshall Plan)の受け入れ拒否を各国共産党に指示。ソ連は1949年1月8日に経済相互援助会議(Council for Mutual Economic Assistance)設立。

1948年2月25日 チェコスロバキア政変勃発、共産主義政権樹立。チェコスロバキアは東欧においては例外的に工業国であり、議会制度が整っていた。このクーデターは西欧諸国にとっては二重の衝撃だった。なぜなら、工業国であるチェコスロバキアが加わったことで共産主義陣営の軍事力が大幅に増強されたことを意味し、議会制度が整っていても共産主義革命が成立するのならばイギリスでもフランスでもクーデターは発生しうるということを意味するからだ。

1948年3月17日 イギリス、フランス、ベルギー、ルクセンブルク、オランダはブリュッセル条約(西ヨーロッパ連合条約)に署名。翌1949年4月4日には北大西洋条約機構North Atlantic Treaty Organization)設立。アメリカを加えた軍事同盟とした。

1948年6月24日 ソ連ベルリン封鎖開始。アメリカ、イギリスのベルリン大空輸の成功により、1949年5月12日に封鎖解除。

1948年6月28日 ユーゴスラビアコミンフォルムから除名。ユーゴスラビア共産党政権にも関わらず、マーシャルプランを受け入れていたことが背景。ユーゴスラビアソ連軍の助力をほぼ受けることなく単独でナチスドイツを追い出した国であり、西側諸国とも仲良くしたいという独自の外交方針を持っていた。 

1948年8月15日 大韓民国成立

1948年9月9日 朝鮮民主主義人民共和国成立

1948年11月2日 Truman大統領再選。

1949年4月4日 北大西洋条約機構North Atlantic Treaty Organization)設立。

1949年4月23日 チャイナで中国共産党軍が中華民国の首都南京を制圧。

1949年5月12日 ソ連ベルリン封鎖解除。

1949年9月7日 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。

1949年10月7日 ドイツ民主共和国東ドイツ)成立。ドイツの東西分裂が確定。

1949年8月29日 ソ連が初の核実験に成功。

1949年9月25日 ソ連が原爆保有を公表。

1949年10月1日 チャイナで中華人民共和国が成立。 

1950年2月14日 中ソ友好同盟相互援助条約を締結。

1950年[US174]6月25日【冷戦第一波TOP】朝鮮戦争の勃発

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冷戦第一波に関与したのは、F.Roosevelt、Truman、Eisenhowerの3人の大統領だ。

  • Franklin Delano Roosevelt第32代大統領(1933年[US157]3月4日〜1945年[US169]4月12日)
  • Harry S. Truman第33代大統領(1945年[US169]4月12日〜1953年[US177]1月20日)
  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)

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冷戦第一波に関与したソ連の書記長は以下の通り。

  • Joseph Vissarionovich Stalin書記長(1922年[US146]4月3日〜1953年[US177]3月5日)
  • Georgy Maximilianovich Malenkov筆頭書記(1953年[US177]3月5日〜13日)
  • Nikita Sergeyevich Khrushchev第一書記(1953年[US177]3月14日筆頭書記、9月7日第一書記〜1964年[US188]10月14日) 

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

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アメリカの地政学10:1945-1991冷戦

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では、アメリカの地政学を学ぶために冷戦の概観把握とアメリカ大統領及びソ連書記長の確認から始める。

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第一に、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に同書p.56-7に従って「冷戦の荒波」を3つに分けて把握する。[US歴]および【括弧】内はSynmeが追記した。

  1. 【冷戦第一波】 1945年[US169]終戦〜1950年[US174]朝鮮戦争〜雪どけ【1959年[US183]キャンプデービット会談】
  2. 【冷戦第二波】 雪どけ〜1962年[US186]キューバ危機〜デタント【1973年[US197]パリ和平協定調印(ベトナム戦争停戦合意)】
  3. 【冷戦第三波】 デタント〜新冷戦【1979年[US203]のソ連アフガニスタン侵攻】〜ソ連崩壊1991年[US215]

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第二に、「冷戦の荒波」に関与したアメリカ大統領を確認する。それぞれ、「冷戦の荒波」の中の位置づけもSynmeなりに追記した。

まず、【冷戦第一波】に関与したのは、F.Roosevelt、Truman、Eisenhowerの3人の大統領だ。F.Rooseveltの死去(1945年[US169]4月12日)により米ソの対立は高まり始めた。Trumanの下で高まっていった米ソの緊張は朝鮮戦争の勃発(1950年[US174]6月25日)によって冷戦最初のピークに達した。Eisenhowerによる対立緩和の結果としてEisenhowerとフルシチョフとのキャンプデービット会談(1959年[US183]9月25−27日)に至った。

  • Franklin Delano Roosevelt第32代大統領(1933年[US157]3月4日〜1945年[US169]4月12日)
  • Harry S. Truman第33代大統領(1945年[US169]4月12日〜1953年[US177]1月20日)
  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)

Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続、Johsonが拡大したベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)が行き詰まる中、Nixonが就任してパリ和平協定の調印(1973年[US]1月27日)によるベトナム戦争停戦にこぎ着けた。

  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)
  • John Fitzgerald Kennedy第35代大統領(1961年[US185]1月20日〜1963年[US187]11月22日)
  • Lyndon Baines Johnson第36代大統領(1963年[US187]11月22日〜1969年[US193]1月20日)
  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)

 最後に【冷戦第三波】に関与したのは、Nixon、Ford、Carter、Reagan、G.H.Bushの5人の大統領だ。NixonとFordはむしろ関与できなかったと言った方が良いかもしれない。折角のパリ和平協定調印にも関わらず、ウォーターゲート事件でNixonとFordはベトナムを放置。結局、南アジアではベトナムラオスカンボジア共産国家が誕生した。中東ではアフガニスタン共産国家が誕生し、これを支援するソ連のアフガン侵攻(1979年[US203]12月24日)によって米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。アフガン侵攻の長期化がソ連の財政を圧迫し、Reaganの掲げた戦略防衛構想に端を発する軍拡競争に対抗する力を有していなかったソ連では政治経済の改革を目指すゴルバチョフが書記長に就任(1985年[US209]3月11日)して、1991年[US215]12月25日にソ連崩壊。冷戦は終結に向かった。

  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)
  • Gerald Rudolph Ford第38代大統領(1974年[US198]8月9日〜1977年[US201]1月20日)
  • James Earl Carter Jr.第39代大統領(1977年[US201]1月20日〜1981年[US205]1月20日)
  • Ronald Wilson Reagan第40代大統領(1981年[US205]1月20日〜1989年[US213]1月20日)
  • George Hebert Bush第41代大統領(1989年[US213]1月20日〜1993年[US217]1月20日)

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第三に、冷戦に関与したソ連の書記長も確認しておく。なお、表記はラテン語表記にした。

  • Joseph Vissarionovich Stalin書記長(1922年[US146]4月3日〜1953年[US177]3月5日)
  • Georgy Maximilianovich Malenkov筆頭書記(1953年[US177]3月5日〜13日)
  • Nikita Sergeyevich Khrushchev第一書記(1953年[US177]3月14日筆頭書記、9月7日第一書記〜1964年[US188]10月14日)
  • Leonid Il'ich Brezhnev書記長(1964年[US]10月14日〜1982年[US]11月10日)
  • Yurii Vladimirovich Andropov書記長(1982年[US]11月12日〜1984年[US]2月9日)
  • Konstantin Ustinovich Chernenko書記長(1984年[US]2月13日〜1985年[US]3月10日)
  • Mikhail Sergeevich Gorbachev書記長(1985年[US]3月11日〜1991年[US]8月24日)

 

文責:鵄士縦七 

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

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アメリカの地政学09

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ここまで高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門をベースにしてアメリカの地政学(具体的には、米西戦争第一次世界大戦第二次世界大戦朝鮮戦争ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)と5つの戦争)を学んできた。

高橋氏の同書では、これら5つの戦争に続けて、キューバ危機、イラン・イラク戦争湾岸戦争を扱っている。しかし、Synmeはいったん同書から離れ、次のようにアメリカの地政学の学習を続けることにする。

まず、朝鮮戦争ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)は既に冷戦が始まって以降の戦争であり、冷戦の一部をなしている。クールにザックリ学びたいSynmeとしては、冷戦をまとめて理解したい。そのために、3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.56-7に言う「冷戦の荒波」をベースに冷戦をクールにザックリ学ぶ。

加えて、時間軸のズレもある。高橋氏の同書は米西戦争の1898年[US122]が起点だった。Synmeは日本の現在の外交・軍事の起点は「いや〜ござったペリーさん」の1853年[US077]と考えているので、もう少し遡りたいのである。そこで、100年予測 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)p.68-9の以下の一文を参考に、米英戦争米墨戦争南北戦争をクールにザックリ学ぶ。

(中略)アメリカは、その歴史全体のおよそ10%の期間を、戦争に費やしている。この場合の戦争とは、一八一二年戦争(米英戦争)、アメリカ・メキシコ戦争米墨戦争)、南北戦争、第一次および第二次世界大戦朝鮮戦争ベトナム戦争の大規模な戦争を指し、米西戦争や「砂漠の嵐」といった小規模な紛争は含まない。

 上記の3つの戦争の年代を確認しておく。ついでに革命戦争も学びたいので追加しておく。

  1. 1775年[bUS001] 革命戦争(〜1783年[US007])
  2. 1812年[US036] 米英戦争(~1814年[US038])
  3. 1846年[US070] 米墨戦争(〜1848年[US072])
  4. 1861年[US085] 南北戦争(〜1865年[US089])

「冷戦の荒波」と上記4つの戦争を学んだ上で、 世界のニュースがわかる! 図解地政学入門p.220-6「中東とアメリカ」に戻っていくのが今のところのSynmeの予定である。

 

文責:鵄士縦七

 

3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編

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100年予測 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

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アメリカの地政学08:1955-1975ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)Vol.2

前回の学習を踏まえて、高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)がどのように説明されているかをまとめておく。

まず、ごく簡単に第1次インドシナ戦争について。第二次世界大戦後のベトナムは、日本政府が降伏文書に調印した1945年[US169]9月2日に独立を宣言した。しかしフランスは植民地支配を継続しようとベトナムを攻撃し、1946年[US170]に第1次インドシナ戦争が勃発。8年後の1954年[US178]にようやくジュネーブ協定が結ばれて停戦した。

次に、アメリカの介入・傀儡政権成立(1955年[US179]10月26日)について、高橋氏はベトナム民主共和国の成立(1945年[US169]9月2日)、共産党チャイナの成立(1949年[US173]10月1日)と立て続けに社会主義国が誕生したことでアメリカがアジア一帯の共産化を懸念したことが背景と指摘している。

実際、南ベトナムだけでなく、ラオスカンボジアでも南ベトナム解放民族戦線の勢力(ラオスでは左派(パテート・ラーオ)、カンボジアではクメール・ルージュ)が勝利した。ラオス人民民主共和国の成立(1975年[US199])、民主カンボジアの成立(1976年[US200])とアジアの共産化はドミノ倒しのように進んだ。

高橋氏は、アメリカの介入の程度にも言及している。1965年[US189]から北爆を開始したこと、地上部隊も最終的には50万人に達したことなどを指摘している。

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加えて、ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)に関わったアメリカ大統領についても確認しておく。Synmeはベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)の期間を1955年[US179]から1975年[US199]までとしているので、以下の5人のアメリカ大統領が関わったことになる。

  • Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)
  • John Fitzgerald Kennedy第35代大統領(1961年[US185]1月20日〜1963年[US187]11月22日)
  • Lyndon Baines Johnson第36代大統領(1963年[US187]11月22日〜1969年[US193]1月20日)
  • Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)
  • Gerald Rudolph Ford第38代大統領(1974年[US198]8月9日〜1977年[US201]1月20日)

Synmeなりにザックリまとめると以下の様になる。まとめの下に、ベトナム戦争とアメリカ大統領に関する事項を列挙しておいた。

Eisenhower大統領がフランスに代わってベトナムに介入。1961年[US185]にJ.F.Kennedy大統領が就任して、特殊部隊を派遣、軍事物資支援を増強したが、1963年[US187]に暗殺されてしまう。大統領に昇格したJohnson海兵隊および陸軍を派遣して戦争を拡大した。最盛期の1968年[US192]のアメリカ地上軍は50万人!しかし、一向に勝てない。1968年[US192]末にNixon大統領が当選し1973年[US197]に停戦協定まで持ち込むも、翌1974年[US198]にウォーターゲート事件で辞任してしまう。アメリカ軍の撤退は既に完了していてアメリカ国民はベトナム戦争に興味を失い、昇格したFord大統領も何もせず、放置されたベトナム共和国は崩壊してしまった。

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  • 1953年[US] 1月20日Eisenhower大統領就任。7月27日朝鮮戦争休戦協定調印
  • 1954年[US] 7月ジュネーブ協定成立。9月米仏会談にてアメリカが1955年[US]1月からインドシナ諸国に対して直接の援助を行うことを決定
  • 1955年[US] 10月26日ベトナム共和国成立。アメリカは軍事支援を開始
  • 1956年[US] 11月Eisenhower大統領が再選 
  • 1960年[US] 11月J.F.Kennedy大統領が当選。12月20日NLF(南ベトナム民族解放戦線)結成
  • 1961年[US] 1月20日J.F.Kennedy大統領就任。5月アメリカは特殊作戦部隊600人(軍事顧問団)の派遣と軍事物資の支援増強を決定。クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃開始
  • 1963年[US] 11月22日J.F.Kennedy暗殺、Johnsonが大統領に昇格
  • 1964年[US] 8月7日アメリカ上下両院でトンキン湾決議承認。Johnson大統領は実質的な戦時大権を獲得。11月Johnson大統領が再選 
  • 1965年[US] 2月7日北爆開始。3月8日アメリカ海兵隊3,500人がダナンに上陸。7月28日アメリカ陸軍の派遣発表
  • 1968年[US] アメリカは最盛期で一度に50万人の地上軍を投入。1月29日テト攻勢ベトナム民主共和国軍と南ベトナム解放民族戦線によるベトナム共和国軍とアメリカ軍に対する大規模な一斉攻撃)。10月北爆停止。11月Nixon大統領が当選
  • 1972年[US196] 2月21日Nixon大統領がチャイナ訪問。5月8日北爆再開決定。11月Nixon大統領が再選
  • 1973年[US197] 1月27日パリ和平協定調印。1月29日Nixon大統領がベトナム戦争終結宣言。3月29日アメリカ軍の撤退完了、ただしアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し残留、軍事物資の供給も継続
  • 1974年[US198] 8月9日Nixon大統領辞任、Fordが大統領に昇格。アメリカはベトナム戦争に興味を失う
  • 1975年[US199] 3月10日ベトナム民主共和国は「アメリカの再介入はない」と判断し、南北ベトナム統一を目指してベトナム共和国軍に対する全面攻撃(Ho Chi Minh作戦)を開始。4月30日サイゴン陥落、ベトナム共和国崩壊
  • 1976年[US200] 7月2日南北統一ベトナム社会主義共和国に改称。11月Ford大統領が選挙に敗れる

 

文責:鵄士縦七 

 

世界のニュースがわかる! 図解地政学入門

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