アメリカの地政学12:1945-1991冷戦Vol.3
ひきつづき、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第一波】を学ぶ。最初に、【冷静第一波】の対立が緩和していく過程についてクールにザックリまとめる。
Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連はICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。
前回までの冷戦:
第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。
【冷静第一波】の対立が緩和していく過程に起こった出来事は以下の通り。
1950年[US174]6月25日【冷戦第一波TOP】朝鮮戦争の勃発
1950年8月10日 警察予備隊の設置。朝鮮戦争勃発伴う在日米軍出動による日本国内の軍事的空白への対処が目的。ソ連南下や国内の共産勢力が懸念だった。この再軍備が翌年の独立回復につながった。再軍備と独立回復がセットなのは1955年の西ドイツも同様だ。
1951年4月11日 Douglas MacArthur元帥、Truman大統領によって連合国軍最高司令官を罷免される。
1951年8月30日 米比相互防衛条約調印。アメリカとフィリピンの軍事同盟。沖縄、台湾にフィリピンを加えることで、チャイナや北ベトナムを押さえ込むのがアメリカの目的。フィリピン第三共和国は1946年7月4日にアメリカから独立していた。
1951年9月1日 太平洋安全保障条約(Australia, New Zealand, United States Security Treaty)調印。オーストラリア、ニュージーランド及びアメリカの軍事同盟。インドネシアの200万人の共産党員という潜在的脅威に対する防波堤。加えて、日本の再軍備を背景としたアメリカのオーストラリア、ニュージーランドへのコミットという意味合いもある。
1951年9月4日 サンフランシスコ講和会議始まる。
1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約調印、日本が独立回復。同日、日米安全保障条約調印、アメリカ軍の駐留維持と治安出動が定められた。
1952年11月 Eisenhower大統領当選。Eisenhowerは、朝鮮戦争の終結を公約して大統領選を戦った。
1953年1月20日 Truman大統領退任。Eisenhower大統領就任。
1953年3月5日 Stalin死去。資本主義陣営に大きな不信感を抱いていたStalinの死亡により、ソ連は集団指導体制に移行し、米ソの緊張は和らいでいった。
1953年3月14日 Khrushchev筆頭書記就任。
1953年7月27日 朝鮮戦争の休戦協定調印。
1953年8月8日 米韓相互防衛条約調印。朝鮮戦争後にアメリカと韓国が結んだ軍事同盟アメリカ軍の韓国への駐留維持と韓国軍の作戦指揮権をひきつづき国連軍すなわちアメリカ軍が持つことが定められた。韓国軍の作戦指揮権は、1978年にできた米韓連合司令部に作戦統制権として継承された。冷戦終結後1993年12月に、平時の作戦統制権は韓国軍に移管。有事の際は韓国軍は引き続き米軍(米韓連合司令部)の指揮下に入ることになっている。戦時作戦統制権についても、2012年に米韓連合司令部から韓国軍に移管される予定となっていたが、2020年代中ごろまで延期されて現在に至っている。
1953年9月7日 Khrushchev第一書記就任。
1954年7月21日 ジュネーブ協定が成立し、第1次インドシナ戦争休戦
1954年9月8日 東南アジア条約機構(Southeast Asia Treaty Organization)調印。フィリピン、タイおよびアメリカ等が結んだベトナムに対抗してインドシナ半島の共産化防止を目的とする軍事同盟。他にパキスタン、オーストラリア、フランス、イギリス、ニュージーランドのの計8ヵ国で組織。1977年6月30日に解散した。
1954年12月2日 米華相互防衛条約調印。アメリカと中華民国の軍事同盟。沖縄、台湾及びフィリピンで、チャイナや北ベトナムを押さえ込むのがアメリカの目的。
1955年2月24日 イギリス、トルコ、パキスタン、イラン帝国、イラク王国がバグダード条約を調印し、中東条約機構(Middle East Treaty Organization)が発足。アメリカがオブザーバー参加。
1955年5月5日 西ドイツが主権の完全回復を宣言し(パリ協定の発効)、ドイツ連邦軍を編成・再軍備、NATOに加盟した。西ドイツはソ連とも国交回復。西ドイツの再軍備とNATO加盟はチェコスロバキア政変と同じ効果を共産主義陣営に与えた。西ドイツは欧州最大のルール工業地帯を有しており、同地は武器の一大産地。大砲で有名なクルップ社、電気・電子機器に長けるシーメンス社も同地の企業である。背景としては、アジアでチャイナとベトナムを封じ込めるためにフィリピンのアメリカ軍基地を拡充し、在西ドイツ・アメリカ軍をフィリピンに移すことにより生じる西ドイツの軍事的空白への対処が必要だった。
1955年5月14日 ワルシャワ条約機構(Warsaw Treaty Organization)設立。ちなみに同じWTOでも世界貿易機関はWorld Trade Organization。
1955年5月15日 オーストリア国家条約について、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連とオーストリアが調印。ドイツとの合併の禁止、核兵器など特殊兵器の禁止、永世中立等を内容とする。永世中立国としてアメリカとソ連が合意したため、オーストリアは統一を維持して国家を回復できた。ゆげ氏は下記のように指摘している。
WW IもWW IIも、兄弟国家であるオーストリアとドイツの協力・一体化が前提にあった。二度の大戦は「ドイツvs全世界」と言っても過言ではない。
(中略)今後またドイツとオーストリアがくっついて第三次世界大戦を引き起こすことがないようにドイツと軍事同盟を結べないようにしたのだった。
1955年7月18日 ジュネーブ四巨頭会談(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の首脳会談)が開かれる。ポツダム会談以来10年振りの首脳会談。特段の成果は出なかったが緊張緩和ムードを醸成した。
1955年10月26日 ベトナム共和国成立
1956年10月19日 日ソ共同宣言。ソ連は日本を承認し、日ソの国交回復。平和条約締結には至らなかったため、現在も法的にはロシア(ソ連外交を継承)と日本は戦争状態にある。しかし、同年中に日本のUnited Nationsへの加盟が実現した。
1956年2月25日 共産党第20回大会(コミンフォルム解散、スターリン批判)
1956年6月28日 ポズナニで反ソ暴動勃発。ポーランド西部の工業都市ポズナニの労働者が反ソを宣言。ワルシャワ政府側はKhrushchevに従い内戦となったが、勝利した。
1956年10月23日 ハンガリー動乱勃発(〜11月10日)。ハンガリーがソ連からの離脱を宣言。ソ連軍が介入・制圧した。
1956年12月18日 日本の連合国憲章(United Nations)加盟
1957年8月26日 ソ連がICBM(Inter-Continental Ballistic Missile)の発射実験に成功と発表。
1957年10月4日 ソ連が人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功を発表。スプートニク・ショックとも呼ばれるのは、人工衛星の打ち上げ技術と核ミサイルの打ち上げ技術がまったく同じであり、ソ連がアメリカに核ミサイルを打ち込むことが可能になったことを意味したから。ソ連のミサイルがアメリカに先行する背景には1947年のトルコでのアメリカ軍基地設置がある。1949年にはソ連も原爆保有に至っているものの、アメリカ本土は共産主義陣営の飛行場からの航続距離圏外だったため、1947年以来、ソ連だけが核の脅威に怯える状態が続いていたのだ。スプートニク・ショックにより米ソ両国が核の脅威に怯える状態となった。
1958年7月29日 NASA(National Aeronautics and Space Administration)の設立
1959年[US183]9月25−27日【冷戦第一波BOTTOM】Khrushchev訪米。EisenhowerとKhrushchevとのキャンプデービット会談
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冷戦第一波に関与したのは、F.Roosevelt、Truman、Eisenhowerの3人の大統領だ。
- Franklin Delano Roosevelt第32代大統領(1933年[US157]3月4日〜1945年[US169]4月12日)
- Harry S. Truman第33代大統領(1945年[US169]4月12日〜1953年[US177]1月20日)
- Dwight David Eisenhower第34代大統領(1953年[US177]1月20日〜1961年[US185]1月20日)
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冷戦第一波に関与したソ連の書記長は以下の通り。
- Joseph Vissarionovich Stalin書記長(1922年[US146]4月3日〜1953年[US177]3月5日)
- Georgy Maximilianovich Malenkov筆頭書記(1953年[US177]3月5日〜13日)
- Nikita Sergeyevich Khrushchev第一書記(1953年[US177]3月14日筆頭書記、9月7日第一書記〜1964年[US188]10月14日)
文責:鵄士縦七