Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学07:1814-1815ウィーン会議

ひきつづきフランスの地政学としてのウィーン会議を学ぶ。「会議は踊る、されど進まず。(The Congress dances, but it does not progress. )」最初にクールにザックリまとめる。 

ウィーン会議(1814年[US038]〜1815年[US039])は遅々として進まなかったが、Napoléonのエルバ島脱出と復位の報に接して妥協が成立した。オーストリアドイツ連邦の盟主となりロンバルド=ヴェネト王国の国王となった。ロシアは、フィンランド大公国ポーランド立憲王国を承認させ、オスマン帝国からベッサラビアを獲得。プロイセンラインラントを含め東西に領土を拡大。イギリスは、フランスからマルタ島を、オランダからセイロン島ケープ植民地を獲得、何より制海権を確立させた。スウェーデンデンマークからノルウェーを獲得してスウェーデンノルウェー連合王国となった。フランス復古王政セネガルを植民地として承認された。その他、ネーデルラント王国が成立、サルデーニャ王国が領土拡大、ナポリ王国復古、スペイン王国復古、スイス連邦永世中立国として承認された。 

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ウィーン会議は1814年[US038]9月1日〜1815年[US039]6月9日に開催された。

ナポレオン戦争戦勝国であるオーストリア、ロシア、プロイセン及びローマ教皇領とフランスとの間で行われた講和会議だった。フランス復古王政は正統主義(諸国の王侯の家門を,フランス革命ナポレオン戦争以前の状態に復活させようというもの)、具体的には1792年以前の状態を取り戻すことを唱え、領土の縮小を防ごうとした。

基本的に戦勝国間の領土分割が主目的ながらヨーロッパの再建・安定を求める側面もあり、フランスにとっては寛大な取り決め内容となったようだ。ただ、革命政府(共和政・帝政)から王政に戻ったとは言え、その外交力・交渉力は見習うべきである。

話が飛ぶが、日本が大東亜戦争に敗れた時も、敗戦にあたっての外交努力が決定的に不足していたと考える。どの国にも良い面と悪い面、得意な面と不得手な面があると思うが、Synmeが思うに、1905年[US129]に小村寿太郎が桂ハリマン協定を覆して以来、ニッポンが一番ダメなのは今も昔も「外交」ではないか。国際情勢を捉まえる努力をせず、ニッポン人のローカルな感性のまま推測・思い込みで交渉を進めることで国益を損ね、自国民に不要な苦痛・忍耐を強いる...

さて、 各国の領土獲得状況等を見てみる。

オーストリアドイツ連邦(1815年[US039]6月8日〜1866年[US090]8月23日)を成立させ、オーストリア皇帝がその盟主となった。イタリア北部のロンバルディアと旧ヴェネツィア共和国領を獲得、オーストリア皇帝が王を兼ねるロンバルド=ヴェネト王国(1815年[US039]6月9日〜1866年[US090]10月12日)とした。しかし、ネーデルラントポーランドなどの所領を放棄しなければならなかった。

ロシア:ロシア皇帝が大公を兼ねるフィンランド大公国(1809年[US033]9月17日〜1917年[US141]3月15日)が正式に承認され、ワルシャワ公国の大部分をポーランド立憲王国(1815年[US039]6月9日〜1867年[US091])としてロシア皇帝が王を兼ねる事実上のロシア領とした(第四次ポーランド分割)。また、オスマン帝国からベッサラビアを獲得した。

プロイセンザクセン王国の北半分、ワルシャワ公国の一部、ラインラント、旧ルクセンブルク公領の一部、オラニエ=ナッサウ家のドイツ内の所領などを獲得。また、スウェーデンから西ポンメルンを獲得。東西に領土を拡大した。

イギリス:フランスからマルタ島イオニア諸島ギリシア西岸)を獲得。オランダからセイロン島ケープ植民地を獲得する。何より、ナポレオン戦争緒戦の中で各国の海軍を打ち破ったことによる制海権の確立がイギリスにとっての最大の成果とSynmeは考える。ちょうど第二次大戦におけるアメリカによる制海権確立と同様だ。

フランス復古王政ルイ18世が即位してブルボン朝が復活、フランス革命前の状態を回復した。また、セネガルを植民地として承認された。

オランダ(ネーデルラント):ネーデルラント王国(1815年[US039]6月9日〜1839年[US063]4月19日)が成立。その領土は現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグに相当した。なお、旧ルクセンブルク公領は新たにネーデルランド王が大公を兼ねるルクセンブルク大公国とし、ドイツ連邦に加盟した。また、南ネーデルラントの大部分は1830年に独立してベルギー王国となった。
スウェーデンデンマークからノルウェーを獲得し、スウェーデンノルウェー連合王国(1814年[US038]11月4日〜1905年[US129]10月26日)となった。
サルデーニャ:旧ジェノヴァ共和国領を獲得。
ナポリ:フェルディナンド4世が復位してシチリアブルボン朝が復活。翌1816年にシチリア王国と正式に合併して両シチリア王国(1816年[US040]12月8日〜1861年[US085])が成立する。
スペイン:フェルナンド7世が復位してスペイン・ブルボン朝が復活。
スイス:新たに5つのカントン(州)を加え、永世中立国として承認された。

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フィンランド大公国は、フレデリクスハムンの和約(1809年[US033]9月17日、第2次ロシア・スウェーデン戦争)によってスウェーデンからロシア帝国フィンランドが割譲されたときに建国され、ウィーン会議によって正式に承認された。

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エスペラント語は、ポーランド立憲王国下で勃発した一月蜂起(1863年[US087])以降の独立運動の中で創作された。

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1806年のロシア・トルコ戦争の結果としてルーマニア人のモルダビア公国領を、オスマン帝国ロシア帝国に一部割譲した。ロシア側が割譲した公国東部地方をベッサラビアと呼称した。現モルドバ共和国と重なる地域。

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スウェーデンノルウェーの両王国は、キール条約(1814年1月14日、ノルウェーデンマークからスウェーデンに割譲された)、ノルウェーの独立宣言、スウェーデンとの短い戦争、1814年8月14日のモス条約、および11月4日のノルウェー憲法改正を経て、一人の君主のもとでの同君連合として結ばれていた。同じ日にノルウェー議会は国王にスウェーデン王カール13世を選んだ。

言うまでもないことだが、デンマークフランス第一帝政の唯一の対等な同盟国であった。領土の喪失は免れなかったとSynmeは考える。また、ロシアが果たした役割の大きさに鑑みても、フィンランドは正式にロシアのものとせざるを得ず、ノルウェースウェーデンのものとなる結果に至ったと言える。

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イタリア王国の成立:1861年2月18日ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世トリノで第8期サルデーニャ議会を召集。3月14日に議会はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世をイタリア王と宣言し、3月27日にはローマを首都と宣言した(依然として王国の統治下には入っていなかったが)。この3か月後、生涯の事業をほぼ終えたカヴールが世を去った。彼の最後の言葉は「イタリアはつくられた。すべてが安心だ」であった。

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ウィーン体制下のヨーロッパ地図はこちらを参照。 

 

文責:鵄士縦七

 

フランスの地政学06:1812-1814第六次対仏大同盟

ひきつづきフランスの地政学としての第六次対仏大同盟を学ぶ。今回はロシア遠征に端を発するフランス第一帝政の崩壊を学習する。最初にクールにザックリまとめる。 

1812年[US036]Napoléonはイギリスとの貿易を再開したロシアに遠征するも焦土作戦により撃退される。一方、ロシアはイギリスとエレブルー条約を締結して和解しており、これに1813年[US037]プロイセンが参加。第六次対仏大同盟に発展して行く。Napoléonもリュッツェンの戦いやバウツェンの戦いでロシア・プロイセン連合軍に勝利しオーストリアの仲介で休戦協定が結ばれたが、講和会議は決裂。オーストリア、スウェーデンもフランスに宣戦布告する。ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍はグロスベーレンの戦い、デネヴィッツの戦い、カッツバッハの戦い等に勝利。Napoléonはドレスデンの戦いに勝利するも追撃に失敗して戦力を失う。Napoléonはライプツィヒの戦いに敗北してフランスへ撤退する。東からの攻勢に加え、南からもイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がフランスに侵攻、パリは陥落した。パリ陥落によりライン同盟は解体された。フォンテーヌブロー条約によりNapoléonは退位しエルバ島に追放。フランス王政が復古した。 

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またしてもロシアである、とSynmeは思う。第一次世界大戦も第二次世界大戦もそうだったが、ナポレオン戦争においてもフランス第一帝政崩壊の転機をもたらしたのは多大な犠牲を払ったロシアの勝利であった。

1810年[US034]ロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開した。フランス第一帝政は大陸封鎖令に留まる様に説得を続けるがロシアは拒絶。1812年[US036] Napoléonはロシア遠征を決定する。

この間のロシアの外交が重要である。1807年[US031]7月7日ロシアはフランスとティルジットの和約を結んで対仏大同盟を離脱。フランスと協調関係を築き、イギリスと対立して英露戦争(1807年[US031]9月〜1812年[US036]7月18日)及び第2次ロシア・スウェーデン戦争(フィンランド戦争、1808年[US032]2月〜1809年[US033]9月)を戦っていた。しかし、1812年[US036]4月にイギリス、ロシア、スウェーデンは対Napoléonの秘密協定を結ぶ。そして、7月18日にイギリスとロシア、スウェーデンはエレブルー条約を締結して和解。これが第六次対仏大同盟(1812年[US036]7月18日〜1814年[US038]4月16日)の礎となる。 

さて、1812年[US036]6月23日にロシア進攻は始まった。国境付近でのロシア軍殲滅を狙うNapoléonに対し、ロシアは焦土作戦でフランス第一帝政に立ち向かったが、これはポルトガルで功を奏した戦略の継承でもあった。

具体的には、スモレンスクの戦い(8月16日〜18日)にフランスは勝利するものの、ロシアは街を焼き払った上で戦略的に撤退。ボロジノの戦い(9月7日)もフランスが勝利し、モスクワ入城を果たすが、ロシアは首都モスクワさえ焼き払って戦略的に撤退して陸軍を温存してフランスからの和平交渉を拒絶し続けた。10月19日物資の補給を断念せざるを得なかったNapoléonは撤退を開始した。

一方、10月23日にはフランス国内でクーデター勃発。11月6日ナポレオンはクーデターを知り、12月5日軍を置いて先に帰国。12月14日ロシアに攻め入った軍隊は駆逐された。ロシアは焦土作戦で祖国を守った上に、半島戦争で傷ついていたNapoléonの不敗神話を打ち破ったのである。

1813年[US037]2月27日プロイセンはフランスとの同盟を破棄して第六次対仏大同盟に参加した。リュッツェンの戦い(5月2日)でNapoléonはロシアの奇襲に反攻・撃退し、バウツェンの戦い(5月20日-21日)でロシア・プロイセン連合軍にも勝利したが、決定的勝利ではなかった。6月4日ナポレオンへ皇后マリー・ルイーズを嫁がせていたオーストリアの仲介で休戦協定が結ばれた。

この頃、半島戦争でもフランス第一帝政は苦境を迎えていた。イギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がビトリアの戦い(6月21日)をはじめとして、各所でフランス軍を撃破し、フランス本土へと北上しつつあったのだ。

7月29日プラハでフランスとロシア及びプロイセンの講和会議が開催されたが決裂。8月10日に休戦期間は終了し、翌11日オーストリアもフランスへ宣戦布告した。7月にはスウェーデンも第六次対仏大同盟に参加していた。

ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍はトラーヒェンブルク・プランを採用し、ナポレオン本隊との正面衝突を避け、部下の部隊との会戦を志向する戦略を取った。北方では、スウェーデン軍がグロスベーレンの戦い(8月23日)に勝利。更にデネヴィッツの戦い(9月6日)にも勝利した。東方では、プロイセン軍がカッツバッハの戦い(8月26日)に勝利した。南方では、Napoléonがドレスデンの戦い(8月26日〜27日)でオーストリア・ロシア連合軍に勝利したが、追撃に失敗して(クルムの戦い(8月29日〜30日))戦力を失って行った。10月にはフランスの長年の同盟国であったバイエルン王国までもが離反した。追い込まれたNapoléonは西方へ撤退してライプツィヒの戦い(諸国民の戦い、10月16日〜19日)に臨んだが敗退。フランスへの撤退を余儀なくされた。

東からはロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍が、南からはスペインを制圧したイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がピレネー山脈を越えた。1813年[US037]12月2日連合軍がアムステルダムへ入城。Napoléonは局地的な戦闘(六日間の戦役(1814年[US038]2月10日〜14日)など)でたびたび勝利を収めたが劣勢は覆らず、アルシー・シュール・オーブの戦いなどで敗北。3月30日連合軍は首都パリへの攻撃を開始。翌31日パリに入城した。

フランス臨時政府は停戦のためにNapoléonの退位を決議。1814年[US038]4月11日フォンテーヌブロー条約が合意に達しナポレオンが退位、4月16日に締結された。退位したNapoléonはエルバ島を隠居地とし、近衛隊と共に隠棲することに決まり、事実上のフランス追放となった。その引き換えに200万フランの年金がフランス政府から送金されると約束され、皇后マリー・ルイーズと息子のナポレオン2世にはパルマ侯国の統治者の地位が与えられて、後に同島に赴くことも約束された。

フランス上院の議決により、フランス革命以来亡命していたブルボン家のルイ18世が帰還して即位し、王政復古がなされた。

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ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い、10月16日〜19日)がナポレオン戦争における最大の戦闘であった。19万のフランス軍に対して36万の連合軍が包囲攻撃、フランス軍は戦死4万捕虜3万を出して敗走した。

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1814年[US038]5月30日に第1次パリ条約が締結され、同盟国とフランス臨時政府の間で講和が成立した。イギリスのヘルゴランド島(Heligoland - Wikipedia) 領有もこの条約で承認された。

 

文責:鵄士縦七

フランスの地政学05:1809第五次対仏大同盟

ひきつづきフランスの地政学としての第五次対仏大同盟を学ぶ。今回はフランス第一帝政が迎えた絶頂期とフランス第一帝政の終わりの始まりとしてのスペイン独立戦争半島戦争)の始まりを学習する。最初にクールにザックリまとめる。 

1807年[US031]フランス第一帝政は大陸封鎖令に参加しない唯一の大陸国ポルトガルの攻略を開始した。リスボンを攻略するが、ポルトガル女王は出航・逃亡。ポルトガルの植民地獲得に失敗する。Napoléonがスペインの直接支配を目論むと、民衆の反発は1808年[US032]スペイン独立戦争に発展し、フランス第一帝政は陸戦で初の敗北を喫する等して泥沼化。Napoléonがスペインで苦戦する機に1809年[US033]オーストリアはイギリスと第五次対仏大同盟を結んで侵攻を開始した。Napoléonは直接指揮下の初敗北がありながらもヴァグラムの戦いオーストリアに勝利した。シェーンブルンの和約でオーストラリアはフランスにトリエステダルマチアを割譲、8,500万フランの賠償金を課せられた。 1811年[US035]教皇領はフランスに併合され、Napoléonは絶頂期を迎えた

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これまで4回に渡って学んできた対仏大同盟、フランス第一共和政第一帝政の連戦連勝である、しかし、イギリスが海戦に勝ち続けており制海権を維持している。

イギリスへの対抗策として、1806年[US030]11月21日Napoléonは大陸封鎖令を出していた。欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮させ、フランスの市場を広げようという目論みである。フランスに従属した諸国は大陸封鎖に参加を余儀なくされた。しかし、豊かな経済力をもつイギリスと通商ができなくなった大陸諸国の側にも経済的困窮を招いてしまっていた。

とはいえ、第4次対仏大同盟が崩壊した時点でプロイセン、ロシアが大陸封鎖令に参加し、その後ロシアに敗れたスウェーデンも参加することとなったため、Napoléonの対英戦略の根幹に位置づけられていた大陸封鎖令に参加しない大陸国ポルトガルのみとなっていた。

1807年[US031]11月フランス第一帝政ポルトガルの攻略を開始した。フランスは12月1日にはリスボンを攻略するが、ポルトガル女王は11月29日に出航・逃亡した後だった。ポルトガルはブラジルのリオデジャネイロに遷都し、ブラジル公国を本国と同格の王国とし1815年[US039]12月16日には正式に国名をポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国と改称した

ポルトガルの植民地獲得に失敗したNapoléonは、スペインの直接支配を目論み、スペイン・ブルボン朝の内紛に介入。1808年[US032]3月Napoléonの兄ジョゼフをホセ1世としてスペイン国王に即位させた。これにスペイン民衆が反発し5月2日マドリッドで蜂起、7月スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏した。これは、皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてきたナポレオンの陸上での最初の敗北だった。8月イギリスが英葡永久同盟により参戦し、スペイン独立戦争半島戦争、1808年[US032]5月2日〜1814年[US038]4月10日)に発展した。

フランス第一帝政がスペインで苦戦しているのを見て、1809年[US033]4月9日オーストリアはイギリスと第五次対仏大同盟を結んで、バイエルンへの侵攻を開始した。

この第五次対仏大同盟(1809年[US033]4月9日〜10月14日)の参加国はオーストリアとイギリスの2ヶ国のみだった。 

1809年[US033]4月9日、カール大公率いる20万のオーストリア軍主力は、フランスの同盟国バイエルンへの侵攻を開始。同時にフェルディナント大公の軍団がワルシャワ公国へ、ヨハン大公の軍団がイタリアへ侵攻した。しかし、Napoléonはオーストリア軍の分散状況を見抜き、即座に反撃に転じた。Napoléonは4月20日にアベンスベルクでオーストリア軍の前衛を突破。21日にランツフートでオーストリア軍左翼を破り、22日のエックミュールの戦いでカール大公率いるオーストリア軍右翼を撃破した。カール大公はドナウ川の北岸に退却した。

同じ頃ポーランドでも、ワルシャワ公国軍が、ラシンの戦い(4月19日)でオーストリア軍に勝利した。Napoléon率いるフランス軍主力はドナウ川南岸を東進し、5月13日にオーストリアの首都ウィーンに無血入城した。カール大公もオーストリア軍をドナウ川の対岸に集結させ、決戦の構えとなった。
5月18日から20日にかけて、フランス軍ドナウ川の中洲のロバウ島を占領して仮橋をかけ、対岸のアスペルンからエスリンクの一帯に橋頭堡を築いた。だがオーストリア軍の破壊工作によって仮橋がしばしば流され、十分な兵力を渡河させることができなかった。5月21日-22日、オーストリア軍は半渡のフランス軍に対して攻撃をかけ勝利を収めた。このアスペルン・エスリンクの戦いはNapoléon自身の指揮による初めての敗北となった。

Napoléonはイタリア方面からのウジェーヌ軍団などの来着を待って、再び決戦を挑んだ。7月4日、暴風雨を衝いて夜間に前衛部隊がドナウ川を渡河し、5日夕刻までに一気に14万が渡河に成功した。7月5日から6日にかけて行われたヴァグラムの戦いで、フランス軍は多大な損害を出しながらもオーストリア軍に対して勝利を収めた。

10月14日シェーンブルンの和約でオーストリアはフランスと講和。オーストラリアはフランスにはトリエステダルマチアを、バイエルン王国にはザルツブルクとチロルを、ワルシャワ公国には北部ガリツィアとルブリンを割譲した。ロシア帝国に対しては、オーストリアと戦わなかったにもかかわらず、東部ガリツィアを割譲した。そのうえ、8,500万フランの賠償金を課せられた。 

1811年[US035]3月20日に王子ナポレオン2世が誕生し、ローマ王となった。この過程で教皇領はフランスに併合され、ローマ教皇ピウス7世は幽閉された。

このころナポレオンの覇権はオランダ、ハンブルク、ローマなどを併合したフランス帝国の他、支配下イタリア王国、兄ジョゼフが王位にあるスペイン、弟ジェロームが王位にあるヴェストファーレン王国、義弟のミュラが王位にあるナポリ王国、従属的な同盟国のスイス、ライン同盟、ワルシャワ公国、そして対等同盟国のデンマーク王国に及び、ナポレオンの絶頂期と評される。

ナポレオン戦争 - Wikipedia

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ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の領土はこちらを参照。海外に遷都とはニッポン人のSynmeの発想を超えている。知らなかったし、驚いた。

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英葡永久同盟(Anglo-Portuguese Alliance)は、イングランド(イギリス)とポルトガルの間で1373年[bUS403]に結ばれ、現在まで続く世界最古の同盟。

 

文責:鵄士縦七

 

フランスの地政学04:1806-1807第四次対仏大同盟

ひきつづきフランスの地政学としての第四次対仏大同盟を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

1806年[US030]ライン同盟が成立すると、プロイセン第四次対仏大同盟を成立させた。フランスは、プロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデンの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。フランスはイエナ・アウエルシュタットの戦いプロイセンに勝利してベルリンを制圧、プロイセン王は東プロイセンへ逃れた。フランスもポーランドに進軍、1807年[US031]アイラウの戦いでフランスはロシアを撤退させて辛勝、フリートラントの戦いでロシアに大勝、臨時首都ケーニヒスベルクを占領した。フランスとロシア、プロイセンは、それぞれティルジットの和約で講和。プロイセンは完全に敗北していたので、フランスとロシアの講和をもって第4次対仏大同盟は崩壊した。エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。一方、この条約によりフランスとロシアとの間には協調関係が成立した。

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1806年[US030]7月12日フランスは西南ドイツ一帯をライン同盟として保護国化した。ライン同盟の成立を受けて、8月6日に神聖ローマ帝国の解散が宣言された。

フランス第一帝政の覇権は中部ドイツまで及ぶことになったので、プロイセンはフランスに対抗するために7月にロシアと同盟を結び、続いて10月6日に第四次対仏大同盟を成立させた。

この第四次対仏大同盟(1806年[US030]10月6日〜1807年[US031]7月7日)の参加国はプロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデンの4ヶ国だった。 

プロイセンは、9月26日フランス軍のドイツからの撤退を要求する最後通牒を突きつけ、10月9日フランスへ宣戦布告した。しかし、フランスは、10月14日イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに壊滅的打撃を与えて勝利した。10月25日プロイセンの首都ベルリンを制圧、10月27日にはNapoléonもベルリンへ入城。国内のプロイセン軍は、宣戦布告から1ヶ月も経たないうちに事実上消滅してしまった。プロイセン王は東プロイセンへ逃れ、ケーニヒスベルクを臨時首都とした。

フランスもプロイセン王を追ってポーランドに進軍、ロシアとの対決に備えた。1795年[US019]ポーランドは、ロシア、プロイセン及びオーストリアの3国によって全領土を分割(第3次ポーランド分割)されてしまっていたので、Napoléonは祖国の解放者として熱狂的に迎え入れた。

対仏大同盟、ナポレオン戦争と言うとフランスが悪者・侵略者という印象を持つかもしれない。あるいはフランス独立戦争は祖国防衛戦争だったが、ナポレオン戦争侵略戦争だった等と言う表現もあるだろう。しかし、オランダ、北イタリア、ポーランド等での歓迎振りに現れている通り、オーストリア神聖ローマ帝国)、ロシアからの解放という側面がフランス第一共和政第一帝政の急速な領土拡大、衛星国・保護国獲得の背景にあることを忘れてはいけないとSynmeは思う。

Napoléonが正しかったと言ういうつもりはなく、対仏大同盟というのはフランス民衆vs欧州各国の皇帝・王の戦いだったと言う構図を忘れてはいけないということ。

さて、ロシアは10万の援軍を東プロイセンへ集結させていたので、1807年[US031]2月7日〜8日アイラウの戦いでフランス軍はロシア・プロイセン連合軍と衝突。フランスはロシアを撤退させて辛勝した。6月14日フリートラントの戦いでフランスはロシアに大打撃を与えて勝利した。6月16日にはフランス軍ケーニヒスベルクを占領し、プロイセンは完全に敗北した。

7月7日にフランスとロシアが、7月9日にフランスとプロイセンが、ティルジットの和約で講和した。6月の段階でプロイセンは完全に敗北していたので、フランスとロシアが講和した1807年[US031]7月7日をもって第4次対仏大同盟は崩壊した。

プロイセンエルベ川以西の領土とポーランドを失い、さらに1億2,000万フランの賠償金を課せられ、賠償金の支払いが終わるまでのフランス軍の駐留を認めさせられた。エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。フランス第一帝政の勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧。オーストリアプロイセンも従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評されるようだ。

一方、この条約によりフランスとロシアとの間には協調関係が成立した。ロシアは第四次対仏大同盟から離脱し、対イギリスの経済封鎖である大陸封鎖令に参加。また、ロシアがイギリスへ宣戦することが確認された(英露戦争)。スウェーデンに対しては、大陸封鎖令に参加させるためにロシアが圧力をかけることとされた。

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ティルジットの和約に基づき、第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年[US032]〜1809年[US033])が勃発し、敗れたスウェーデンフィンランドをロシアへ割譲するとともに大陸封鎖令に参加した(パリ条約)。

その後、スウェーデン国王カール13世はナポレオン麾下のベルナドットを養子に迎え入れた。ベルナドットは1818年に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる(このスウェーデン王家は現在までも続いている)。スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持ってはおらず強固たる関係とはいえない状態であった。

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またデンマークはイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。とはいえデンマークナポレオン戦争終結まで同盟関係を破棄することはなかった。

 

文責:鵄士縦七

 

フランスの地政学03:1805-1806第三次対仏大同盟

ひきつづきフランスの地政学としての第三次対仏大同盟を学ぶ。今回はナポレオン戦争の勃発から。最初にクールにザックリまとめる。

1803年[US027]イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスへ宣戦布告。ナポレオン戦争が勃発した。フランス第一帝政のイギリス侵攻計画に対抗して、1805年[US029]イギリスは第三次対仏大同盟を結成。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、ナポリスウェーデンの5ヶ国連合軍と戦うこととなった。トラファルガーの海戦においてフランス・スペイン連合艦隊がイギリス艦隊に敗北するも、Napoléonはウルム戦役オーストリア軍に勝利し、アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍に勝利。プレスブルクの和約により、オーストリアはフランスにイストリアダルマチアを割譲、イタリア王国を承認して同国にヴェネツィアを割譲した。1806年[US030]にフランス軍ナポリ王国を征服。Napoléonはライン同盟を成立・保護国化させて神聖ローマ帝国を解体させた。第三次対仏大同盟はイギリス、ロシア、スウェーデンの3ヶ国のみになってしまった。

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1803年[US027]5月16日、イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスへ宣戦布告。ナポレオン戦争が勃発した。

一方、Napoléonは、1804年[US028]12月2日「フランス人民の皇帝」に即位。フランス第一帝政が成立していた。

Napoléonは、海上封鎖を展開してフランス経済に打撃を与えるイギリス本土への侵攻作戦を計画。ドーバー海峡に面したブローニュに18万の兵力を集結させた。イギリスは、これに対抗するため、1805年[US029]4月11日に第三次対仏大同盟を結成した。

この第三次対仏大同盟(1805年[US029]4月11日〜1806年[US030]3月30日)の参加国はイギリス、オーストリア、ロシア、ナポリスウェーデンの5ヶ国だった。 

1805年[US029]10月21日トラファルガーの海戦においてフランス・スペイン連合艦隊がHoratio Nelsonが率いるイギリス艦隊に敗北。Napoléonは、イギリス進攻計画を諦めざるを得なかった。

しかし、ウルム戦役(1805年[US029]9月25日〜10月20日)でオーストリア軍に勝利し、1805年[US029]12月2日アウステルリッツの戦いにおいてNapoléon率いるフランス軍がロシア・オーストリア連合軍に勝利すると、オーストリアは戦争継続の意思を失った。

今回もドイツ方面と北イタリア方面の2正面が戦局になり得たが、Napoléonがドイツ方面であっという間に大勝してしまうことで、オーストリアに敗北を認めさせた。Napoléonが皇帝となり、戦局全ての指揮を執って、自ら軍を率いた結果だとSynmeは思う。ちなみにトラファルガーの海戦における敗戦について、Napoléonは嵐にあって難破したと情報操作をしたそうだ。

1805年[US029]12月26日プレスブルクの和約によりフランスはオーストリアと講和し、フランスにイストリアとダルマチアを割譲、イタリア王国を承認して同国にヴェネツィアを割譲した。

さらに1806年[US030]7月12日Napoléonは親フランスのライン同盟を結成し、神聖ローマ帝国を解体させた。フランスの覇権は中部ドイツまで及ぶこととなった。

第三次対仏大同盟はプレスブルクの和約によりオーストリアが抜け、1806年[US030]3月30日フランス軍に征服されてナポリが抜け、イギリス、ロシア、スウェーデンの3ヶ国だけになってしまった。

対仏大同盟の場合、オーストリアがすぐに降伏・講和してしまう。Synmeが考えるに、同盟関係において同盟国を単独講和させないことが何より重要である。話が飛ぶけれども、第二次世界大戦においてアメリカがチャイナを手厚く遇し、現代においてチャイナがUnited Nationsの常任理事国にまでなっているのもチャイナが日本と単独講和するのを阻止するためであった。

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第三次対仏大同盟もフランスの勝利と言えるが、海戦での勝者はまたもイギリスであった。イギリスでは、トラファルガーの海戦の勝利を記念してトラファルガー広場が作られ、同広場にはNelsonの銅像が建っている。一方、フランスにとってのアウステルリッツの戦いの意義も大きく、凱旋門はその勝利を記念して建てられた。 

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Horatio Nelsonはトラファルガーの海戦で戦死するが、この戦いにおける彼の訓示"England expects that every man will do his duty."(英国は各員がその義務を尽くすことを期待する)が有名。英語の勉強としては、Nelsonのオリジナル・フレーズ“Nelson convinced that every man will do his duty”(ネルソンは各員がその義務を全うすることを確信する)のconvinceの使い方が為になる。

 

文責:鵄士縦七

 

 

フランスの地政学02:1798-1801第二次対仏大同盟

ひきつづきフランスの地政学としての第二次対仏大同盟を学ぶ。今回はフランス革命戦争終結まで。最初にクールにザックリまとめる。

オーストリアがラシュタット会議を引き延ばす中、Napoléonがエジプト遠征に失敗。Napoléonの不在を好機と見たオーストリア1798年[US022]第二次対仏同盟を結成し、再度参戦した。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。オーストリアは一時イタリアを奪還したが、1799年[US023]クーデターにより第一統領となったNapoléonにマレンゴの戦い(1800年[US024])で敗北、ホーエンリンデンの戦い(同年)でドイツ方面でも敗北。 1801年[US025]リュネヴィルの和約により、オーストリアバタヴィア共和国ヘルヴェティア共和国チザルピーナ共和国リグリア共和国の承認を再確認し、フランスによるラインラントの併合を承認した。再びイギリスのみが交戦を続けることとなったが、1802年[US026]アミアンの和約を締結してフランスと講和。フランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。

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1798年[US022]1月19日にラシュタット会議が始まった。 全面的な戦争終結を目指した講和会議であったが、オーストリアは講和せず会議を引き延ばした。

1798年[US022]7月3日Napoléonはイギリスとインドとの連携を断つ目的でエジプト遠征を進言し、容れられた。Napoléon軍はマルタ島を経由して7月3日にエジプトに上陸した。7月21日にはピラミッドの戦いに勝利し、7月25日にはカイロ入城。しかし、8月1日にはナイルの海戦においてイギリス地中海艦隊がフランス艦隊を殲滅、Napoléon軍の補給と退路を奪いつつあった。

Napoléonはエジプトから動けなくなり、Napoléonの不在を好機と見たオーストリア1798年[US022]12月24日第二次対仏同盟(〜1801年[US025]2月9日)を結成し、再度参戦した。オーストリアとしてはラシュタット会議で時間稼ぎをして最終的な講和をせずに戦闘再開まで漕ぎ着けたので、外交的勝利と言える。ラシュタット会議は1799年[US023]3月21日に決裂。

この第二次対仏大同盟(1798年[US022]12月24日〜1801年[US025]2月9日)の参加国はイギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国だった。イギリスは盟主であり、かつ戦い続けていたので当然として、自国領土のエジプトに侵攻されたトルコが参加し、そのトルコを支援する形でロシアも参加した形である。

フランス第一共和政は再び劣勢に立ちオーストリアがイタリアを奪還するに及んだ。1799年[US023]8月22日Napoléonは側近のみを連れてフランス本土へ舞い戻り、同年11月9日にはプリュメール18日のクーデターを起こして統領政府を樹立。自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。

Napoléonはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠で越えて北イタリアに入り1800年[US024]6月14日のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に勝利。同年12月3日のホーエンリンデンの戦いでフランス軍はドイツ方面でもオーストリア軍に勝利した。 

1801年[US025]2月9日リュネヴィルの和約が締結され、オーストリアはフランスの諸衛星国(バタヴィア共和国ヘルヴェティア共和国チザルピーナ共和国、リグリア共和国)の承認を再確認し、フランスによるラインラントの併合を承認した。

再びイギリスのみが交戦を続けることとなったが、1802年[US026]3月25日アミアンの和約を締結してイギリスもフランスと講和した。これによりフランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。

フランスは共和制を諦めてNapoléonの実質的独裁制を採ってフランス革命戦争に勝利した。しかし、カンポ・フォルミオの和約がオーストリアとの形だけの休戦だったのと同様。アミアンの和約もイギリスとの形だけの休戦に過ぎなかった。

フランスは領土も衛星国も増やしている途上だが、ドイツ方面と北イタリア方面の2正面の陸戦でオーストリアと対峙し、海戦ではイギリスに挑戦しなければならないという構図の厳しさは出始めているとSynmeは思う。フランスが戦い始めたのは自由(=革命)を守る戦いだったはずなのだが、既に第二次対仏大同盟を打ち破った段階では実質的に共和制を諦めざるを得ない状況に陥っていたわけで、民主主義を保ちながら自国の独立を守る難しさを示しているとSynmeは思う。

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Napoléonが指揮官の任を放り出し敵前逃亡した後のエジプト遠征はどうなったか?指揮官を失ったフランス軍はかろうじて抵抗を続け、1801年[US025]に生き残った1万5000人がイギリスとトルコに降伏。フランスへと帰国した。

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ヘルヴェティア共和国1798年[US022]から1803年[US027]の間にスイスに存在した共和国。1798年[US022]3月5日フランスはスイスへ侵攻。スイスの盟約者団は崩壊し、4月12日にヘルヴェティア共和国の建国が宣言されフランスの衛星国となった。1803年[US027]2月19日、Napoléonの仲裁により以前の盟約者団が復活し、中央集権的な政府は廃止された。

 

文責:鵄士縦七

フランスの地政学01:1793-1797第一次対仏同盟

今回からフランスの地政学を学ぶ。事実上、Napoléon Bonaparteのフランスの地政学だけれども。Napoléonのフランスは周囲の国と20年近く戦争を続け、勝ち続けた。最後に敗北するまで...

早速フランスの地政学としての第一次対仏大同盟を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

1792年[US016]フランス革命政府がオーストリアに宣戦してフランス革命戦争勃発。1793年[US017]フランス第一共和政の打倒を目指す第一次対仏同盟が結成され、フランスは、イギリス、スペイン、オーストリア、南ネーデルラントプロイセンサルディーニャナポリの7ヶ国連合軍と戦うこととなった。徴兵制を布いたフランスは攻勢に転じ、1795年[US019]バーゼルの和約によりプロイセンと講和し、ラインラントを併合。同年第二次バーゼルの和約によりスペインと講和し、サントドミンゴを割譲。1797年[US021]カンポ・フォルミオの和約によりオーストリアと講和し、ネーデルラントロンバルディア地中海のコルフ島アドリア海の島々を割譲。第一次対仏大同盟は崩壊し、交戦国はイギリスだけとなった。 

f:id:synme:20170925003634j:plain フランス革命は1789年[US013]7月14日のバスティーユ襲撃に端を発し、1792年[US016]9月21日に国民公会によってブルボン王政の廃止が宣言されLouis XVIは退位、フランス第一共和政(French First Republic)が始まった。

一方、一足早い1792年[US016]4月20日オーストリアによる内政干渉に対してフランス革命政府が宣戦布告。フランス革命戦争(〜1802年[US026]3月25日)が勃発していた。

1793年[US017]1月21日にLouis XVIが処刑されるに及び、革命の波及を恐れたフランス周辺の王国は同盟を組んでフランス第一共和政の打倒を目指すことになる。

第一次対仏同盟(1793年[US017]〜1797年[US021]10月18日)の参加国は、イギリス、スペイン、オーストリア、南ネーデルラントオーストリアネーデルラント)、プロイセンサルディーニャナポリの7ヶ国だった。

フランス第一共和政は、当初、内憂外患を抱えて劣勢に立たされた。1793年[US017]3月18日ネールウィンデンの戦いでオーストリア、南ネーデルラント連合軍に敗れ、一時はその大半を占領した南ネーデルラントを失った。王党派の反乱もあり、トゥーロンでは市内の王党派がイギリスとスペインの艦隊を入港させるなどした。 

しかし、1793年8月23日に国民公会が徴兵制を布いて兵力を回復すると反攻に転じ、すべての同盟軍を国外に撤退させた。トゥーロン奪還(1793年[US017]9月18日〜12月18日)においてNapoléonが初めて名声を得た。

フランス第一共和政の攻勢は続いた。まず、1795年[US019]4月5日バーゼルの和約によりプロイセンと講和し、ラインラントを併合。同年5月には衛星国のバタヴィア共和国(〜1806年[US030])を建国した。次に、同年7月22日第二次バーゼルの和約によりスペインと講和し、サントドミンゴを割譲。

フランス第一共和政はライン方面2軍とイタリア方面1軍の3方面からオーストリアへの進攻を計画。イタリア方面軍の司令官に抜擢されていたNapoléonは北イタリアで勝利を重ね、1797年[US021]4月にはウィーンに迫った。オーストリアは停戦を申し入れ、4月18日にレオーベンの和約が成立した。

同年10月18日カンポ・フォルミオの和約によりオーストリアと講和し、南ネーデルラントロンバルディア、地中海のコルフ島、アドリア海の島々を割譲。当時オーストリアの支配を受けていた北イタリアではNapoléonの軍隊は解放軍として歓迎を受けた。カンポ・フォルミオの和約により、フランス第一共和政ロンバルディアを割譲。加えて、衛星国チザルピーナ共和国とリグリア共和国の独立をオーストリアに承認させた。

カンポ・フォルミオの和約により、第一次対仏大同盟は崩壊。イギリスだけが交戦を続ける事態となった。 

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サントドミンゴアメリカの地政学にも出てきた。イスパニョーラ島東部の植民都市。現在はドミニカ共和国の首都である。

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現在のイタリア共和国ロンバルディア州の州都はミラノである。

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サルデーニャ王国は18世紀から19世紀にかけてサルデーニャ島ピエモンテサヴォワとニース伯領(アルプ=マリティーム県)を統治した。本拠はサルデーニャ島ではなく大陸のピエモンテにあり、首都はトリノであった。

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ナポリ王国は13世紀から19世紀にかけてカンパニア州カラブリア州プッリャ州アブルッツォ州モリーゼ州バジリカータ州及び、現在のラツィオ州の一部(ガエータ、カッシーノ)を統治した。首都はナポリ

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1793年[US017]フランス第一共和政はオランダを占領した。1795年[US019]1月19日フランスの衛星国としてバタヴィア共和国(〜1806年[US030])が成立、ネーデルラント連邦共和国は崩壊した。

オランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命した。イギリスはウィレム5世の依頼によりオランダの海外植民地の接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィアジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。ちなみにオランダ東インド会社1798年[US022]に解散している。

 

文責:鵄士縦七