Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学01:1793-1797第一次対仏同盟

今回からフランスの地政学を学ぶ。事実上、Napoléon Bonaparteのフランスの地政学だけれども。Napoléonのフランスは周囲の国と20年近く戦争を続け、勝ち続けた。最後に敗北するまで...

早速フランスの地政学としての第一次対仏大同盟を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

1792年[US016]フランス革命政府がオーストリアに宣戦してフランス革命戦争勃発。1793年[US017]フランス第一共和政の打倒を目指す第一次対仏同盟が結成され、フランスは、イギリス、スペイン、オーストリア、南ネーデルラントプロイセンサルディーニャナポリの7ヶ国連合軍と戦うこととなった。徴兵制を布いたフランスは攻勢に転じ、1795年[US019]バーゼルの和約によりプロイセンと講和し、ラインラントを併合。同年第二次バーゼルの和約によりスペインと講和し、サントドミンゴを割譲。1797年[US021]カンポ・フォルミオの和約によりオーストリアと講和し、ネーデルラントロンバルディア地中海のコルフ島アドリア海の島々を割譲。第一次対仏大同盟は崩壊し、交戦国はイギリスだけとなった。 

f:id:synme:20170925003634j:plain フランス革命は1789年[US013]7月14日のバスティーユ襲撃に端を発し、1792年[US016]9月21日に国民公会によってブルボン王政の廃止が宣言されLouis XVIは退位、フランス第一共和政(French First Republic)が始まった。

一方、一足早い1792年[US016]4月20日オーストリアによる内政干渉に対してフランス革命政府が宣戦布告。フランス革命戦争(〜1802年[US026]3月25日)が勃発していた。

1793年[US017]1月21日にLouis XVIが処刑されるに及び、革命の波及を恐れたフランス周辺の王国は同盟を組んでフランス第一共和政の打倒を目指すことになる。

第一次対仏同盟(1793年[US017]〜1797年[US021]10月18日)の参加国は、イギリス、スペイン、オーストリア、南ネーデルラントオーストリアネーデルラント)、プロイセンサルディーニャナポリの7ヶ国だった。

フランス第一共和政は、当初、内憂外患を抱えて劣勢に立たされた。1793年[US017]3月18日ネールウィンデンの戦いでオーストリア、南ネーデルラント連合軍に敗れ、一時はその大半を占領した南ネーデルラントを失った。王党派の反乱もあり、トゥーロンでは市内の王党派がイギリスとスペインの艦隊を入港させるなどした。 

しかし、1793年8月23日に国民公会が徴兵制を布いて兵力を回復すると反攻に転じ、すべての同盟軍を国外に撤退させた。トゥーロン奪還(1793年[US017]9月18日〜12月18日)においてNapoléonが初めて名声を得た。

フランス第一共和政の攻勢は続いた。まず、1795年[US019]4月5日バーゼルの和約によりプロイセンと講和し、ラインラントを併合。同年5月には衛星国のバタヴィア共和国(〜1806年[US030])を建国した。次に、同年7月22日第二次バーゼルの和約によりスペインと講和し、サントドミンゴを割譲。

フランス第一共和政はライン方面2軍とイタリア方面1軍の3方面からオーストリアへの進攻を計画。イタリア方面軍の司令官に抜擢されていたNapoléonは北イタリアで勝利を重ね、1797年[US021]4月にはウィーンに迫った。オーストリアは停戦を申し入れ、4月18日にレオーベンの和約が成立した。

同年10月18日カンポ・フォルミオの和約によりオーストリアと講和し、南ネーデルラントロンバルディア、地中海のコルフ島、アドリア海の島々を割譲。当時オーストリアの支配を受けていた北イタリアではNapoléonの軍隊は解放軍として歓迎を受けた。カンポ・フォルミオの和約により、フランス第一共和政ロンバルディアを割譲。加えて、衛星国チザルピーナ共和国とリグリア共和国の独立をオーストリアに承認させた。

カンポ・フォルミオの和約により、第一次対仏大同盟は崩壊。イギリスだけが交戦を続ける事態となった。 

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サントドミンゴアメリカの地政学にも出てきた。イスパニョーラ島東部の植民都市。現在はドミニカ共和国の首都である。

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現在のイタリア共和国ロンバルディア州の州都はミラノである。

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サルデーニャ王国は18世紀から19世紀にかけてサルデーニャ島ピエモンテサヴォワとニース伯領(アルプ=マリティーム県)を統治した。本拠はサルデーニャ島ではなく大陸のピエモンテにあり、首都はトリノであった。

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ナポリ王国は13世紀から19世紀にかけてカンパニア州カラブリア州プッリャ州アブルッツォ州モリーゼ州バジリカータ州及び、現在のラツィオ州の一部(ガエータ、カッシーノ)を統治した。首都はナポリ

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1793年[US017]フランス第一共和政はオランダを占領した。1795年[US019]1月19日フランスの衛星国としてバタヴィア共和国(〜1806年[US030])が成立、ネーデルラント連邦共和国は崩壊した。

オランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命した。イギリスはウィレム5世の依頼によりオランダの海外植民地の接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィアジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。ちなみにオランダ東インド会社1798年[US022]に解散している。

 

文責:鵄士縦七