Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学04:1806-1807第四次対仏大同盟

ひきつづきフランスの地政学としての第四次対仏大同盟を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。

1806年[US030]ライン同盟が成立すると、プロイセン第四次対仏大同盟を成立させた。フランスは、プロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデンの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。フランスはイエナ・アウエルシュタットの戦いプロイセンに勝利してベルリンを制圧、プロイセン王は東プロイセンへ逃れた。フランスもポーランドに進軍、1807年[US031]アイラウの戦いでフランスはロシアを撤退させて辛勝、フリートラントの戦いでロシアに大勝、臨時首都ケーニヒスベルクを占領した。フランスとロシア、プロイセンは、それぞれティルジットの和約で講和。プロイセンは完全に敗北していたので、フランスとロシアの講和をもって第4次対仏大同盟は崩壊した。エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。一方、この条約によりフランスとロシアとの間には協調関係が成立した。

f:id:synme:20170901222231j:plain

1806年[US030]7月12日フランスは西南ドイツ一帯をライン同盟として保護国化した。ライン同盟の成立を受けて、8月6日に神聖ローマ帝国の解散が宣言された。

フランス第一帝政の覇権は中部ドイツまで及ぶことになったので、プロイセンはフランスに対抗するために7月にロシアと同盟を結び、続いて10月6日に第四次対仏大同盟を成立させた。

この第四次対仏大同盟(1806年[US030]10月6日〜1807年[US031]7月7日)の参加国はプロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデンの4ヶ国だった。 

プロイセンは、9月26日フランス軍のドイツからの撤退を要求する最後通牒を突きつけ、10月9日フランスへ宣戦布告した。しかし、フランスは、10月14日イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに壊滅的打撃を与えて勝利した。10月25日プロイセンの首都ベルリンを制圧、10月27日にはNapoléonもベルリンへ入城。国内のプロイセン軍は、宣戦布告から1ヶ月も経たないうちに事実上消滅してしまった。プロイセン王は東プロイセンへ逃れ、ケーニヒスベルクを臨時首都とした。

フランスもプロイセン王を追ってポーランドに進軍、ロシアとの対決に備えた。1795年[US019]ポーランドは、ロシア、プロイセン及びオーストリアの3国によって全領土を分割(第3次ポーランド分割)されてしまっていたので、Napoléonは祖国の解放者として熱狂的に迎え入れた。

対仏大同盟、ナポレオン戦争と言うとフランスが悪者・侵略者という印象を持つかもしれない。あるいはフランス独立戦争は祖国防衛戦争だったが、ナポレオン戦争侵略戦争だった等と言う表現もあるだろう。しかし、オランダ、北イタリア、ポーランド等での歓迎振りに現れている通り、オーストリア神聖ローマ帝国)、ロシアからの解放という側面がフランス第一共和政第一帝政の急速な領土拡大、衛星国・保護国獲得の背景にあることを忘れてはいけないとSynmeは思う。

Napoléonが正しかったと言ういうつもりはなく、対仏大同盟というのはフランス民衆vs欧州各国の皇帝・王の戦いだったと言う構図を忘れてはいけないということ。

さて、ロシアは10万の援軍を東プロイセンへ集結させていたので、1807年[US031]2月7日〜8日アイラウの戦いでフランス軍はロシア・プロイセン連合軍と衝突。フランスはロシアを撤退させて辛勝した。6月14日フリートラントの戦いでフランスはロシアに大打撃を与えて勝利した。6月16日にはフランス軍ケーニヒスベルクを占領し、プロイセンは完全に敗北した。

7月7日にフランスとロシアが、7月9日にフランスとプロイセンが、ティルジットの和約で講和した。6月の段階でプロイセンは完全に敗北していたので、フランスとロシアが講和した1807年[US031]7月7日をもって第4次対仏大同盟は崩壊した。

プロイセンエルベ川以西の領土とポーランドを失い、さらに1億2,000万フランの賠償金を課せられ、賠償金の支払いが終わるまでのフランス軍の駐留を認めさせられた。エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。フランス第一帝政の勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧。オーストリアプロイセンも従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評されるようだ。

一方、この条約によりフランスとロシアとの間には協調関係が成立した。ロシアは第四次対仏大同盟から離脱し、対イギリスの経済封鎖である大陸封鎖令に参加。また、ロシアがイギリスへ宣戦することが確認された(英露戦争)。スウェーデンに対しては、大陸封鎖令に参加させるためにロシアが圧力をかけることとされた。

--- 

ティルジットの和約に基づき、第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年[US032]〜1809年[US033])が勃発し、敗れたスウェーデンフィンランドをロシアへ割譲するとともに大陸封鎖令に参加した(パリ条約)。

その後、スウェーデン国王カール13世はナポレオン麾下のベルナドットを養子に迎え入れた。ベルナドットは1818年に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる(このスウェーデン王家は現在までも続いている)。スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持ってはおらず強固たる関係とはいえない状態であった。

---

またデンマークはイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。とはいえデンマークナポレオン戦争終結まで同盟関係を破棄することはなかった。

 

文責:鵄士縦七