イギリスの地政学27:1915.7−1916.3フセイン・マクマホン協定
イギリスの地政学を学ぶ。今回はフセイン・マクマホン協定。いわゆる「イギリスの三枚舌外交」と言われる中東地域に関する第一次世界大戦中の外交戦略の最初のものだ。最初に、クールにザックリまとめる。
1915年[US139]7月〜1916年[US140]3月ころイギリスは、オスマン帝国に対してアラブ反乱を起こすことを条件に、戦後のアラブ人独立を支持することを約束した。
1915年[US139]7月〜1916年[US140]3月の期間にメッカの太守(Sharif of Mecca)であるフサイン・イブン・アリー(Hussein bin Ali)とイギリスの駐エジプト高等弁務官(British High Commissioner to Egypt)ヘンリー・マクマホン(Sir Henry McMahon)との間でやりとりされた書簡の中で、イギリスは、オスマン帝国に対して太守がアラブ反乱を起こすことを条件に戦後のアラブ人居住地の独立支持を約束した。
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McMahon–Hussein Correspondence - Wikipedia
文責:鵄士縦七
イタリアの地政学15:1915.5.23オーストリアに対する宣戦布告
イタリアの地政学を学ぶ。今回はイタリアのオーストリアに対する宣戦布告。最初に、クールにザックリまとめる。
1915年[US139]5月23日イタリア王国はオーストリア・ハンガリー二重帝国に対して宣戦布告した。
前回学んだ通り1915年[US139]4月26日イタリア王国は三国協商(イギリス、ロシア、フランス第三共和政)はロンドン条約(1915年)を秘密裏に締結しており、5月4日には三国同盟(ドイツ第二帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国、イタリア王国)を解消した。
そして、1915年[US139]5月23日イタリア王国はオーストリア・ハンガリー二重帝国に対して宣戦布告した。
イタリア王国の「裏切り」により、オーストリア・ハンガリー二重帝国は対セルビア、対ロシア、対イタリアの三正面作戦を強いられることになった。
ドイツは1915年初からイタリア王国に「同盟国側として参戦」する様に催促していたが、イタリアの参戦が叶わないと見ると、せめて「中立」を保つ様に交渉・説得を継続していた。
イタリア王国にとっては、このドイツの申し出の内容が三国協商に対する交渉材料であり、見事に未回収のイタリアの返還を確約させることに成功したわけである。
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文責:鵄士縦七
イタリアの地政学14:1915.4.26ロンドン条約の締結
イタリアの地政学を学ぶ。今回はイタリアと連合国とのロンドン条約の締結。最初に、クールにザックリまとめる。
1915年[US139]4月26日イタリア王国は三国協商(イギリス、ロシア、フランス第三共和政)はロンドン条約(1915年)を秘密裏に締結し、未回収のイタリアの譲渡を約束して、イタリア王国の連合国側での第一次世界大戦参戦を合意した。
1861年[US085]3月17日に成立したイタリア王国(〜1946年[US170]6月2日)には、Risorgimento達成に向けての宿題があった。すなわち未回収のイタリア(Italia irredenta) である。
そして、イタリア王国は一歩ずつ宿題をこなして行く。
まず、普墺戦争(1866年[US090]6月7日〜8月23日)にプロイセン・イタリア連合軍として勝利し、ウィーン条約(1866年[US090]10月12日)を締結してヴェーネト地方を回復した(形式的にはオーストリアがヴェーネト地方をフランス第二帝政に割譲、そのままフランス第二帝政からイタリア王国に割譲)。プロイセンのおかげで、ヴェーネト地方をオーストリアから取り戻したのである。
次に、普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日) が勃発すると、フランス第二帝政はローマに駐留していたフランス軍を引き揚げた。9月2日に9月2日Napoléon IIIが捕虜となると、9月20日イタリア王国はローマを占領し、10月9日に併合した。またしてもプロイセンのおかげで、ローマをフランスから取り戻したのである。
一転して、1882年[US106]5月12日にフランス第三共和政がチュニジアを保護国化すると、20日イタリア王国はドイツ第二帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国の軍事同盟に加わり、三国同盟(〜1915年[US139])を形成した。フランスを警戒して、一旦は宿題を棚上げして、ドイツ(プロイセン)とオーストリアに擦り寄ったのである。
更に、1902年[US126]イタリア王国は秘密裏にフランス第三共和政と仏伊協商を締結し、三国同盟に関わらず、ドイツ第二帝国がフランス第三共和政を攻撃する際にはイタリアは参戦しないことを約した。併せて、フランスのモロッコでの権益とイタリアのトリポリタニアの権益を相互に承認した。北アフリカでもフランスと隣国となったことで、フランスへの警戒感が薄れ、棚上げしていた宿題を思い出して、ドイツ(プロイセン)とオーストリアには黙って、フランスに擦り寄ったのである。
で、1915年[US139]4月26日イタリア王国は宿題を仕上げることに決め、イギリス、ロシア、フランス第三共和政とロンドン条約(1915年)を秘密裏に締結し、未回収のイタリア、すなわち南ティロル地方、トレンティーノ地方、トリエステ、イストリア地方、フィウーメ、ダルマツィア地方などの地域の譲渡の確約を得た。
10−20年ごとの華麗な外交である。素晴らしい。一方で、イタリア外交は信用ならないと見做して間違いない。
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Treaty of London (1915) - Wikipedia
文責:鵄士縦七
ニッポンの地政学61:1915.1.18対華21ヵ条要求
ニッポンの地政学を学ぶ。今回はチャイナに対する対華21ヵ条要求。最初に、クールにザックリまとめる。
1915年[US139]1月18日ニッポンは中華民国の袁世凱に対し、対華21カ条要求を通告した。その内容は、南満州及び東部内蒙古についての権益を強化し、ドイツの権益(山東省など)継承や製鉄会社の合弁化など新しい権益拡大を目指すものであった。
念のために復習しておくと、当時のチャイナは 辛亥革命(1911年[US135]10月10日〜1912年[US136]2月12日)によって清を滅ぼして成立した中華民国(Republic of China, “R.O.C.”)であったが、第二革命(1913年[US137]7月〜8月)を鎮圧した袁世凱(Yuzan Shikai)が正式に大総統に就任し(同年10月10日)、国民党を解散させ(同年11月4日)国会自体も解散させて、独裁を強めていた時期であった。
実際、1915年[US139]12月12日には袁世凱が中華帝国大皇帝に即位して中華帝国(1915年[US139]12月12日〜1916年[US140]3月22日)を成立させている。
さて。
青島の戦い(1914年[US138]10月31日〜11月7日 )に勝利したニッポンは、翌1915年[US139]1月18日に、中華民国(Republic of China, “R.O.C.”)の袁世凱(Yuzan Shikai)に対し、対華21カ条要求を通告した。
これは5号21カ条からなるものであり、ニッポンにとって最大の関心事は、『旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2004年まで)』など南満州及び東部内蒙古についての既得権益を強化することであった(第2号7カ条)。
しかし、『ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること』など青島の戦いの戦果をチャイナでの権益拡大に結び付けたい(第1号4カ条)という要求や、中華民国最大の製鉄会社(漢冶萍公司(かんやひょうこんす))を合弁会社としたい(第3号2カ条)という要求も含まれていた。
どうやら、この辺りまでは欧米列強としても許容範囲内だった様だが、沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと(第4号1カ条)とか秘密交渉による希望条項(第5号7カ条、『中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用すること』など)あたりは列強からも批判を受け、不信感を醸成してしまった様だ。
第5号7カ条の希望条項は結局棚上げして諦めてしまっているわけだから、「サイアク」の外交である。言うまでもないことだが、「秘密交渉」は袁世凱(Yuzan Shikai)によってあっさり暴露されている…
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文責:鵄士縦七
ニッポンの地政学60:1914.10.31-11.7青島の戦い
ニッポンの地政学を学ぶ。今回はイギリスと合同でドイツと戦った青島の戦い。最初に、クールにザックリまとめる。
1914年[US138]10月31日〜11月7日ニッポンとイギリスの連合軍がドイツ第二帝国東洋艦隊の拠点である青島を攻略した。
1898年[US122]3月6日、ドイツ第二帝国は清から膠州湾を99年間租借する条約を締結し、軍港青島(Tsingtau、現在の表記:Qingdao)を建設して、ドイツ第二帝国東洋艦隊を擁していた。
青島の戦い(1914年[US138]10月31日〜11月7日 )はこのドイツ東洋艦隊の拠点青島をニッポンとイギリスの連合軍が攻略した戦いである。
ニッポンとしては、初めて航空機を投入した戦いであり、歩兵突撃でなく砲撃による敵要塞の粉砕という近代的な戦術をようやく成功させることができた戦いであった。
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文責:鵄士縦七
ニッポンの地政学59:1914.10.3-14ドイツ領南洋諸島の占領
ニッポンの地政学を学ぶ。今回はドイツ領南洋諸島の占領。最初に、クールにザックリまとめる。
1914年[US138]10月3日から14日にかけて、ニッポンはドイツ領南洋諸島のうち赤道以北のマリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島を占領した。ニューギニアとサモアについては、オーストラリアとニュージーランドによって9月に既に占領されていた。
どうやらニッポンの参戦後、9月に入りドイツ第二帝国の東洋艦隊の活動が活発化したことで、イギリスやアメリカの「対日警戒」の世論も沈静化した様だ。
1914年[US138]10月3日から14日にかけて、ニッポンは戦艦「鞍馬」、「浅間」、「筑波」、「薩摩」、「矢矧」、「香取」からなる艦隊によって、ドイツ領南洋諸島のうち赤道以北のマリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島を占領した。
ちなみに、ドイツ領南洋諸島のうち、ニューギニアとサモアについては、オーストラリアとニュージーランドによって9月に既に占領されていた。
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文責:鵄士縦七
鉄道と運河の地政学09:1914.8.15パナマ運河開通
今回は久し振りに鉄道と運河の地政学、アメリカによるパナマ運河の開通を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。
1914年[US138]8月15日アメリカはパナマ運河を開通させた。予定より2年早い完成であり、第一次世界大戦の開戦直後であった。
1903年[US117]1月22日アメリカはコロンビアとヘイ・エルラン条約(Hay-Herran Treaty)を締結した。この条約は、1,000万ドルの一時金と年間使用料25万ドルを対価(金での支払)に、パナマ地峡全域を幅6マイル(10km弱)に渡って100年間租借するという内容であった。
アメリカ議会は同年3月14日に同条約を批准したが、コロンビア議会が批准せずヘイ・エルラン条約は失効した。
アメリカはパナマをコロンビアから独立させることにし、同年11月3日にはパナマが独立を宣言、アメリカ26代大統領Theodore Rooseveltは11月13日にはこの独立を承認し、同11月18日にはパナマ運河条約を締結した。
この条約により、アメリカは、パナマ運河と運河の中心から両側5マイル(約16km)ずつを永久租借すること、運河の建設・管理運営権、軍事警察権を獲得した。
翌1904年[US118]5月よりアメリカ資本で工事が本格化し、予定より2年早い1914年[US138]8月15日にパナマ運河は完成・開通した。第一次世界大戦勃発(1914年[US138]7月28日)直後のことであった。
ちなみに、パナマ運河建設にはニッポン人の青山士も従事したそうだ。青山士は、帰国後、信濃川大河津分水路補修工事や荒川放水路建設工事に携わった様である。
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文責:鵄士縦七