ロシアの地政学25:1877-1878ロシア・トルコ戦争、サン・ステファノ条約
ひきつづきロシアの地政学を高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に学ぶ。今回は1877年〜1878年のロシア・トルコ戦争。最初に、クールにザックリまとめる。
セルビア、モンテネグロ、ブルガリア支援を名目に1877年[US101]ロシアがオスマン帝国に対して宣戦布告。ロシアが勝利し、1878年[US102]3月サン・ステファノ条約を締結して、大ブルガリア公国の自治権を認めさせ、事実上保護国化した。ロシアは地中海への陸路を獲得した。
1877-1878ロシア・トルコ戦争(1877年[US101]4月24日〜1878年[US102]3月3日)はロシアの大勝利に終わった。たった3ヶ月間だけであったが、ロシアが地中海への陸路を確保する戦果を得たのである。
セルビア、モンテネグロ、ブルガリア等のオスマン帝国に対する蜂起を支援する名目で、1877年[US101]4月24日ロシアがオスマン帝国に対して宣戦布告。
オスマン帝国軍が約4万人のブルガリア人に対する虐殺を行ったため、オスマン帝国はイギリスの支援も得ることができなかった。ロシアとしては、クリミア戦争(1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)と同じ轍は踏まずに開戦できたと言える。Synmeは改めて思うが、戦争は宣戦布告前に始まっているのだ。
戦争はロシアの勝利に終わり、1878年[US102]3月3日ロシアとオスマン帝国の間でサン・ステファノ条約を締結。大ブルガリア公国(1878年[US102]3月3日〜1908年[US132]10月5日)が(オスマン帝国内での)自治権を獲得した。
大ブルガリア公国の領土はマケドニアの一部を含み、北はドナウ川から南は一部エーゲ海に面するまで拡張された。その上、オスマン帝国軍はブルガリアから撤退することとされ、ロシアはその監視のために5万のロシア軍のブルガリア駐留を認めさせた。
事実上、大ブルガリア公国はロシアの保護国であり、ロシアはブルガリア領内を通って陸路で地中海にいつでも出られることとなったのである。もちろん、地中海に面した軍港を建設することも可能だったであろうとSynmeは考える。
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文責:鵄士縦七