Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学44:1912.3−10バルカン同盟の結成

ロシアの地政学を学ぶ。今回はバルカン同盟の結成。最初に、クールにザックリまとめる。

1912年[US136]3月から10月にかけて、ロシアの主導により、セルビアとブルガリアの軍事同盟を皮切りに、セルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロは個別に対オスマン帝国軍事同盟を締結し、バルカン同盟を結成した。 

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イギリスとフランスの代わりに、バルカン半島における橋頭堡を築く役割を担わされたロシアは可哀想というか、外交下手を露見させていると言える。

しかし、一方でオーストリア=ハンガリー二重帝国とトルコと対立するのに、ロシアが直接手を下すことなく、セルビア、ブルガリア、モンテネグロという独立回復まもない諸国家とギリシアを活用できたという意味ではロシアにとってメリットもあったというべきである。

ともかく、この時期のロシアとしては、結果的にオーストリア=ハンガリー二重帝国にコケにされてしまった形になったボスニア・ヘルツェゴビナ併合を受けて、スラブの盟主としてバルカン半島においてオーストリア=ハンガリー二重帝国に対抗せざるを得ず、外交的な選択肢はあまり残っていなかったとも言えるかもしれない。

ニッポン人として注意しておきたいことは、これらバルカン諸国は歴史的に「ロシア寄り」であるという事実である。特に経済的に足を引っ張るギリシアがEUから除外されない理由の1つに、本質的に親ロシアであるという点があるけれど、このバルカン同盟の顔ぶれの中にギリシアが含まれていることもそのことを裏付けている。バルカン諸国はオーストリアとロシアの間で揺れ動いていたわけだが、オーストリアが弱体化した今、EUに繋ぎ止めておかなければ「ロシア寄り」の素顔が現れる可能性が常にあるということである。

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良い機会なので、簡単にバルカン同盟各国の近代史を学んでおく。 

セルビアは、1817年[US041]にオスマン帝国からセルビア公国(セルビア公国 (近代) - Wikipedia)として自治権を獲得し、1830年[US054]に世襲が認められ完全自治権を得た。サン・ステファノ条約(1877-1878ロシア・トルコ戦争(1877年[US101]4月24日〜1878年[US102]3月3日))により独立し、ベルリン条約(1878年[US102]7月13日)でも独立が再確認された。1882年[US106]3月6日にオーストリア=ハンガリー二重帝国の承認を受けて王制に移行しセルビア王国(セルビア王国 (近代) - Wikipedia)が成立した。1918年12月1日にモンテネグロと共に、オーストリア=ハンガリー二重帝国領だったスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナを合併した連合王国(正式名称セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国、通称ユーゴスラビア王国)を建国した。現在のセルビア共和国(セルビア - Wikipedia)は、2006年[US230]6月5日セルビア・モンテネグロ国家連合の解体に伴って独立した。

モンテネグロは、1852年[US076]に世俗化してモンテネグロ公国(モンテネグロ公国 - Wikipedia)となったが、オスマン帝国はこれに不満を持ち対立が生じて、クリミア戦争(ロシア・トルコ戦争、1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)の一因ともなった。サン・ステファノ条約(1877-1878ロシア・トルコ戦争(1877年[US101]4月24日〜1878年[US102]3月3日))により独立し、ベルリン条約(1878年[US102]7月13日)でも独立が再確認された。1905年[US129]に憲法を改正しモンテネグロ王国( モンテネグロ王国 - Wikipedia )となった。1918年12月1日にセルビアと共に、オーストリア=ハンガリー二重帝国領だったスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナを合併した連合王国(正式名称セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国、通称ユーゴスラビア王国)を建国した。現在のモンテネグロ(モンテネグロ - Wikipedia)は、2006年[US230]6月5日セルビア・モンテネグロ国家連合の解体に伴って独立した。2007年10月19日に新憲法を制定して国名をモンテネグロとした。ちなみに、モンテネグロは「黒い山」という意味だとか、確かに。

ブルガリアは、サン・ステファノ条約(1877-1878ロシア・トルコ戦争(1877年[US101]4月24日〜1878年[US102]3月3日))により大ブルガリア公国(大ブルガリア公国 - Wikipedia)として自治権を獲得した。大ブルガリア公国の領土はマケドニアの一部を含み、北はドナウ川から南は一部エーゲ海に面するまで拡張され、事実上ロシアの保護国であった。 ロシアは陸路による地中海への出口を遂に獲得したかに見えたが、ドイツ第二帝国(1871年[US095]1月18日〜1918年[US142]11月28日)のOtto von Bismarckの主導により1878ベルリン会議(1878年[US102]6月13日〜7月13日)が開かれ、ベルリン条約(1878年[US102]7月13日)が結ばれ、サン・ステファノ条約は修正されれしまった。大ブルガリア公国は3分割され、地中海に面するマケドニアはオスマン帝国に返還され、バルカン山脈以南が東ルメリ自治州とされオスマン帝国の影響力が保持された。つまり、大ブルガリア公国はバルカン山脈以北に領土を制限され、ロシアの地中海への陸路はたった3ヶ月で断たれてしまった。1908年[US132]7月3日にオスマン帝国内で青年トルコ革命(Young Tuk Revolution、青年トルコ人革命 - WikipediaYoung Turk Revolution - Wikipedia)が勃発したのに乗じて、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合(1908年[US132]10月6日)前日の1908年[US132]10月5日に大ブルガリア公国は独立を宣言(Cf.フェルディナンド1世 (ブルガリア王) - Wikipedia)。翌1909年[US133]4月19日にはオスマン帝国の承認も受けてブルガリア王国が成立した。現在のブルガリア共和国(ブルガリア - Wikipedia)は、 1991年[US215]7月13日東欧諸国初となる民主的な憲法を採択して成立した。

現在のギリシア共和国(ギリシャ - Wikipedia)につながるギリシア王国(ギリシャ王国 - Wikipedia)はアドリアノープル条約(第4次ロシア・トルコ戦争(1828年[US052]6月〜1829年[US053]9月14日))によりオスマン帝国から自治が承認された。そもそもギリシャ独立戦争(1821年[US047]3月25日〜1832年[US056]6月)が第4次ロシア・トルコ戦争の引き金となったが、1827年[US053]10月20日のナヴァリノの海戦でイギリス、フランス、ロシア連合軍艦隊がオスマン帝国艦隊を破るとギリシャの独立は確定的となっていた。1821年[US047]3月25日がギリシアの独立記念日であるが、実に古代ギリシャ滅亡以来約1900年振りの独立回復であった。 

 

文責:鵄士縦七