ロシアの地政学10:1806-1807第四次対仏大同盟、ティルジットの和約
ひきつづきロシアの地政学を学ぶ。今回は第四次対仏大同盟をロシアの観点から学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。
ロシアは第四次対仏大同盟(1806年[US030]〜1807年[US031])に参加し、プロイセンと共にフランスと戦った。ロシア・プロイセン連合軍はアイラウの戦いで敗れ、ロシアもフリートラントの戦いで大敗。ロシアはティルジットの和約で講和してフランスと協調することとなる。
Yekaterina II亡き後、まず第二次対仏大同盟でイギリスと同盟、次に第2次武装中立同盟でイギリスと対立したロシア、第三次対仏大同盟に続いて、第四次対仏大同盟(1806年[US030]10月6日〜1807年[US031]7月7日)にも参加してイギリスと同盟する。
ロシアの今回の陸戦のパートナーはプロイセン、フィールドは東プロイセンである。頼りにならないパートナーと、より自国領土に近接したバトルフィールドで、Napoléon Bonaparteと戦う。ロシアにとって最初から今回は少し様相が異なるという戦いだったのではないかとSynmeは思う。
フランス軍に宣戦布告して数週間も経たずに敗れたプロイセン王が東プロイセンに逃れて来ると、Napoléonはこれを追ってポーランドに侵攻した。10万の援軍を東プロイセンへ集結させていたロシアは、ロシア・プロイセン連合軍としてアイラウの戦い(1807年[US031]2月7日〜8日)を戦うが惜敗。
再編成を終えたロシアはハイルスベルクの戦い(1807年[US031]6月10日)に勝利するが、フリートラントの戦い(1807年[US031]6月14日)で大敗した。
ロシアは ティルジットの和約(1807年[US031]7月7日)でフランス第一帝政と講和するが、Yekaterina IIが分割したポーランドの一部(プロイセンとオーストリアの支配地域の一部)がワルシャワ公国としてフランスの衛星国として独立を回復した。
この条約によりロシアはフランスと協調関係を成立させた。ロシアは第四次対仏大同盟から離脱し、対イギリスの経済封鎖である大陸封鎖令に参加。また、ロシアがイギリスへ宣戦することが確認された。スウェーデンに対しては、大陸封鎖令に参加させるためにロシアが圧力をかけることとされた。
Synmeはロシアの地政学の中でそれぞれ1807-1812英露戦争、1808-1809第2次ロシア・スウェーデン戦争として次回、次々回で学習する。
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1806年[US030]ライン同盟が成立すると、プロイセンは第四次対仏大同盟を成立させた。フランスは、プロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデンの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。フランスはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに勝利してベルリンを制圧、プロイセン王は東プロイセンへ逃れた。フランスもポーランドに進軍、1807年[US031]アイラウの戦いでフランスはロシアを撤退させて辛勝、フリートラントの戦いでロシアに大勝、臨時首都ケーニヒスベルクを占領した。フランスとロシア、プロイセンは、それぞれティルジットの和約で講和。プロイセンは完全に敗北していたので、フランスとロシアの講和をもって第4次対仏大同盟は崩壊した。エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドはワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。一方、この条約によりフランスとロシアとの間には協調関係が成立した。
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1795年[US019]、ロシア、プロイセン及びオーストリアの3国がポーランド(ポーランド・リトアニア共和国)の全領土を分割(第3次ポーランド分割)してしまった。
文責:鵄士縦七