ロシアの地政学14:1804-1813第1次イラン・ロシア戦争、ゴレスターン条約
ひきつづきロシアの地政学を高橋洋一氏の世界のニュースがわかる! 図解地政学入門に学ぶ。今回は第1次イラン・ロシア戦争。最初に、クールにザックリまとめる。
1804年[US028]からザカフカース地方を巡って第1次イラン・ロシア戦争が始まった。ロシアが勝利し、1813年[US037]10月24日ゴレスターン条約を締結。ロシアはグルジア(ジョージア)と北アゼルバイジャンを獲得した。
第1次イラン・ロシア戦争は1804年[US028]に領土紛争から始まった。ロシアが勝利し、1813年[US037]10月24日ゴレスターン条約の締結によって、ガージャール朝ペルシア(イラン)は、アラス川以北の地域(北アゼルバイジャン)をロシアに割譲し、グルジア(ジョージア)に対する主権を放棄した。
領土紛争はザカフカース地方(グルジア(ジョージア)、アゼルバイジャン、アルメニア)、すなわち黒海とカスピ海に挟まれた地域を巡るものであった。第1次イラン・ロシア戦争によって、ロシアはその一部を獲得したことになる。加えて、ロシアはカスピ海の航行権も得た。
なお、グルジア王国はキリスト教(東方正教会)の国であってカージャール朝ペルシア(イラン、イスラム教)の脅威にさらされており、1800年[US024]には同じ東方正教会のロシア皇帝に主権を移譲していた。
ゴレスターン条約はイギリスの調停によって締結されたが、背景にはモスクワ遠征(ナポレオン遠征、1812年[US036]6月22日〜12月14日)によるロシアの負担を軽減することで、フランスに対抗させたいというイギリスの意図があった。当時のイギリスはナポレオン戦争の真っ最中であり、ロシアも対仏大同盟の一員であったのだ。
カージャール朝イラン成立直後はエジプトがイギリスにとっての喫緊の課題であったため、イギリスはイランに接近した。しかし、第1次イラン・ロシア戦争が勃発するまでにはエジプトからフランス軍は追い出されており、イランとの関係の重要性が相対的に落ちていたということだ。イランとしては十分な支援をイギリスから得られず、挙げ句イギリスはイランに不利な条約の調停をする始末と言うことだろう。結局は、多方面の外交政策が不可欠だという一例だとSynmeは思う。
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- 1793年〜1797年 第1次対仏大同盟
- 1796年 イラン(ペルシア)でカージャール朝が成立
- 1798年7月 Napoléonがエジプト上陸(エジプト遠征)
- 1798年12月24日〜1801年 第2次対仏大同盟
文責:鵄士縦七