Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学13:1806-12ロシア・トルコ戦争、ブカレスト条約

またまたトルコとの戦争。今回は1806-1812ロシア・トルコ戦争(ブカレスト条約)。最初に、クールにザックリまとめる。

1806年[US030]ロシア・トルコ戦争勃発。ロシアが勝利し、1812年[US036]ブカレスト条約を調印。ロシアは、ベッサラビアを獲得した。

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まず、ベッサラビアとはモルダビア公国の東部であり、この1806-1812ロシア・トルコ戦争の結果としてオスマン帝国からロシアに割譲された当該地域をロシアが指していった名称である。プルト川とドニエストル川の間の地域で、現在のモルドバ共和国とおおよそ重なる地域である。

1806年[US030]オスマン帝国支配下のワラキアとモルダビアにおいて、親ロシア派の総督を罷免した。加えて、キュチュク・カイナルジ条約の規定を破ってボスポラス海峡およびダーダネルス海峡のロシア商船の自由通航権を停止した。ロシアがワラキアとモルダビアを占領し、1806-1812ロシア・トルコ戦争勃発。

ロシアが勝利し、1812年[US036]5月28日に調印されたブカレスト条約により、ロシアはベッサラビアを割譲、ドナウ川での通商権も獲得した。

実は、ロシアはNapoléon Bonaparteがロシア遠征を計画していると言う情報に接しており、講和せざるを得なかった。ブカレスト条約の調印が5月28日で、フランス軍のロシア進攻が始まったのが6月23日。条約の批准が7月5日で、モスクワ制圧が9月14日。もう本当にギリギリ。このモスクワ遠征(1812年祖国戦争)は次々回に学ぶ。

ロシアはいつもこんな感じである。どんな感じかと言うと、二正面と同時期に対立が深まるんだけれど、巧みに片方と不可侵条約を結んで、もう一方に対峙する。片方に勝利するともう一方との不可侵条約を一方的に破棄して、攻め込むという感じだ。例えば、第二次世界大戦の時の西のドイツと東の日本、今回の1806-1812ロシア・トルコ戦争だと西のフランスと南のトルコ(あとイランとも交戦中)である。

ロシアの地政学を学んでいれば、日ソ中立条約なんて信じちゃダメだって分かったはずじゃない?とSynmeは思う。ロシアからすると国境が長大でヨーロッパ、中東、アジアと接している上に、領土が広大で国内の軍隊移動も大変な時間と費用がかかるので、外交巧者であることは必然なんだろうとSynmeは感じる。

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実は、この時期のロシア外交はもう一段階複雑。ロシアは、第三次対仏大同盟(1805年[US029]4月11日 〜1806年[US030])及び第四次対仏大同盟(1806年[US030]10月6日 - 1807年[US031]7月7日)の一員としてフランスと戦っていたのに、1807年[US031]7月7日フランスとティルジットの和約を結んで同盟を離脱。フランスと協調関係を築いた。

結果、ロシアはイギリスと対立。英露戦争(1807年[US031]9月〜1812年[US036]7月18日)、第2次ロシア・スウェーデン戦争(フィンランド戦争、1808年[US032]2月〜1809年[US033]9月)を戦っている。

しかしフランスとロシアの協調関係は長続きしなかった。1812年[US036]4月にイギリス、ロシア、スウェーデンは対Napoléonの秘密協定を結ぶ。そして、フランス軍のロシア進攻(6月23日)から1ヶ月も経たない7月18日にイギリスとロシアはエレブルー条約を締結して英露戦争を終結させている。

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ブカレスト条約によって、ワラキアとモルダビアはロシアからオスマン帝国に返還された。このモルダビア公国の残った部分とワラキア公国は、同君連合(1859年[US083]形成)を経て1881年[US105]にルーマニア王国となった。ベッサラビア - Wikipediaを参照して下さい。

 

文責:鵄士縦七