ニッポンの開国04:1813ロシアのゴローニン事件
ニッポンの開国というかニッポンの国際外交への復帰の過程をいっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編で学ぶ。今回はゴローニン事件。最初に事実だけ。
1813年[US037]ロシアの艦長ゴローニンと高田屋嘉兵衛を交換釈放。国境画定の議論もなされ、江戸幕府は択捉島までを日本領、シムシル島(新知島)までをロシア領、中間の島は中立地帯とする案等を検討したが合意には至らなかった。
1806年[US030]から1807年[US031]にかけて、レザノフの部下フヴォストフが択捉島、樺太、利尻島で略奪・放火を行った。レザノフが武力を用いれば日本は開国すると考えたことに端を発するものだった。
1811年[US035]江戸幕府は択捉島に上陸したロシア艦長ゴローニンを捕縛した。
翌1812年[US036]一旦オホーツクに戻ったロシアの副艦長リコルドは、ゴローニン救出のための材料として、商人である高田屋嘉兵衛を拿捕した。
ロシアとの紛争拡大を避けるため、幕府はロシアがフヴォストフの略奪・放火はロシア皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すればゴローニンを釈放する方針に転じた。
1813年[US037]9月26日イルクーツク県知事トレスキンとオホーツク長官ミニツキーの釈明書を持参したリコルドと松前奉行の間で合意が形成され、交換釈放が成立した。
この頃、1812年祖国戦争(1812年[US036]6月23日〜12月14日)が勃発。ロシアはNapoléon率いるフランス第一帝政と戦っていた。
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1812年[US036]ロシアは遠征してきたNapoléonを焦土作戦により撃退(1812年祖国戦争)。ロシアは多大な犠牲を払いながらフランス第一帝政崩壊の転機をもたらした。
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1812年[US036]Napoléonはイギリスとの貿易を再開したロシアに遠征するも焦土作戦により撃退される。一方、ロシアはイギリスとエレブルー条約を締結して和解しており、これに1813年[US037]プロイセンが参加。第六次対仏大同盟に発展して行く。Napoléonもリュッツェンの戦いやバウツェンの戦いでロシア・プロイセン連合軍に勝利しオーストリアの仲介で休戦協定が結ばれたが、講和会議は決裂。オーストリア、スウェーデンもフランスに宣戦布告する。ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍はグロスベーレンの戦い、デネヴィッツの戦い、カッツバッハの戦い等に勝利。Napoléonはドレスデンの戦いに勝利するも追撃に失敗して戦力を失う。Napoléonはライプツィヒの戦いに敗北してフランスへ撤退する。東からの攻勢に加え、南からもイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がフランスに侵攻、パリは陥落した。パリ陥落によりライン同盟は解体された。フォンテーヌブロー条約によりNapoléonは退位しエルバ島に追放。フランス王政が復古した。
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文責:鵄士縦七