Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学17:1815第七次対仏大同盟、四国同盟、1818五国同盟

今回はロシアの地政学としての第七次対仏大同盟、四国同盟、五国同盟を学ぶ。ウィーン体制の開始によりロシアは約10年間戦争をしない時期を過ごすことになる。最初にクールにザックリまとめる。

ロシアはイギリス、オーストリアプロイセンと共に1815年[US039]3月25日第七次対仏大同盟を結成し、ナポレオン戦争に勝利した。11月20日第二次パリ条約の締結と同日に四国同盟を締結し、ウィーン体制の維持とフランスの監視を目的として、定期会合を持って協調することを約した。1818年[US042]には、フランスも加わり、フランス革命の再発防止・ヨーロッパの秩序安定を目的として五国同盟が成立した(〜1822年[US046])。 

f:id:synme:20180507000703j:plain

ロシアは、フランス第一帝政と協調している間に、第2次ロシア・スウェーデン戦争(フィンランド戦争)に勝利してフィンランド全土とオーランド諸島を獲得した。1812年祖国戦争(1812年[US036]6月22日〜12月14日)に備える過程で、まず1806-12ロシア・トルコ戦争(1806年[US030]〜1812年[US036]5月28日、第3次)に勝利して、ブカレスト条約でベッサラビアを獲得。次に密約によりイギリスと協調して、第1次イラン・ロシア戦争(1804年[US028]〜1813年[US037]10月24日)ではイギリスの調停を得たゴレスターン条約でグルジアジョージア)と北アゼルバイジャンを獲得した。更に1812年祖国戦争に勝利した結果としてポーランドの領地を回復、ウィーン会議ではフィンランド大公国とポーランド立憲王国を承認させることに成功した。

ロシアは、1815年にナポレオン戦争に勝利すると、第2次イラン・ロシア戦争(1826年[US050]〜1828年[US052]2月10日)が勃発するまでの約10年間戦争をしない時期を過ごしている。Synmeが思うに、流石のロシアも国力の回復(軍の再建と1812年祖国戦争の焦土作戦で荒廃した経済・農業生産力の回復)が必要だったのだろう。

一方で、ロシアとしてはイギリスとの対立が再燃することが確実視されている中でフランスの再軍備が1つのカードだったが、イギリスの外交戦略により四国同盟でその手は封じ込まれ、対イギリスでより優位に立つことはできずに終わった10年間でもあった。

四国同盟を継承した五国同盟は1822年[US046]のヴェローナ会議でイギリスだけがスペイン立憲革命への干渉を反対して五国の足並みが揃わなくなり事実上崩壊した。

この間で重要なのはイギリスにおける産業革命の進展で、最盛期の1820年代にはその工業生産は一国で世界の工業生産の半分(50%)を占めることとなった。ナポレオン戦争においてフランスとの協調(イギリスとの対立)を経ながら戦勝国となったロシアが破竹の勢いで衛星国を含む領土拡大を続けている一方、イギリスが(強豪相手候補の筆頭であったフランスの脱落により)産業革命を誰よりも早く達成する結果となったわけである。

五国同盟の崩壊も、体制変更が市場拡大に繋がりうると言うイギリスの新しい考え方がウィーン体制維持をあくまで優先する他の4国と異なった結果である。

--- 

synme.hatenablog.com

1815年[US039]2月26日Napoléonはエルバ島を脱出し3月20日パリ入城、再び帝位に就いて軍の動員に取り掛かった。一方、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンは3月25日に第七次対仏大同盟を結成。スウェーデンネーデルランド、ライン同盟も参加した。Napoléonはリニーの戦いでプロイセン軍を破ったが壊滅には至れなかった。Napoléonはワーテルローの戦いでイギリス・オランダ連合軍と激突したが、フランス軍別働隊の追撃を振り払ったプロイセン軍が戦場へ到着してフランス軍は敗北した。6月22日Napoléonは再び退位、セントヘレナ島へ流罪となった。11月20日第二次パリ条約の締結をもって、ナポレオン戦争は正式に終結した。フランスは7億フランの賠償金の支払いと同盟軍のフランス駐留と駐留経費負担も認めさせられた。

 

文責:鵄士縦七