Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学45

さて、近現代ニッポンの践祚・即位の学習に想定よりも時間がかかってしまったけれど、Great Game終焉に至るフランスの地政学を簡単に振り返る。

19世紀末〜20世紀初頭のGreat Game終焉当時、フランス第三共和政はアフリカの植民地を急速に拡大していく一方で、ドイツ第二帝国の台頭に直面していた。

そしてフランス第三共和政が採った外交方針は、イギリスに譲歩して敵対することを避け、ロシアがドイツ第二帝国に圧力をかけられる様にロシアとイギリス及びニッポンを結びつけることであった。

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フランスの地政学の復習にあたって、ちょっと遡りすぎかもしれないけれど、今回まずは普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日)までを復習する。

 

Napoléon後のフランスは王政に戻っていた(フランス復古王政(1814年[US038]4月6日〜1830年[US054]7月29日))。

その末期1830年[US054]6月に始まったアルジェリア侵略(1830年[US054]6月14日〜1847年[US071])は、七月革命(1830年[US054]7月27日〜29日)でフランス復古王政が打倒された後も七月王政(1830年[US054]8月9日〜1848年[US072]2月24日)に継承された。アルジェリア侵略は1847年[US071]に完了した。フランス七月王政は地中海を内海とする新しいフランスを形作り、後のアフリカ侵略の礎を築いていたのである。

一方のアジアでは、清がイギリスに敗北していた(アヘン戦争(1839年[US063]9月4日〜1842年[US066]8月29日))。1844年[US068]10月24日フランス七月王政は清と黄埔条約を締結した。これはイギリスの南京条約(1842年[US066]8月29日)および虎門寨追加条約(1843年[US067]10月18日)、アメリカの望厦条約(1844年[US068]7月3日)と同様の不平等条約であり、フランス七月王政はチャイナ侵略においても足掛かりを築いていたのである。

 

そして、1848年革命(US072)が起こりウィーン体制が崩壊した。フランスでも二月革命(1848年[US072]2月23日〜12月2日)によってフランス第二共和政が成立、大統領にはNapoléon III(Charles Louis-Napoléon Bonaparte) が選出された。

 

Napoléon IIIは後にクーデターを成功させ、フランス第二帝政(1852年[US076]12月2日〜1870年[US094]9月4日)が始まる。Napoléon IIIはクリミア戦争(ロシア・トルコ戦争、1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)に参戦・勝利することでフランスの国際的地位を復活させた。

アフリカでもセネガルやコートジボワール(象牙海岸)など大西洋沿岸部からアフリカ侵略を展開しはじめた。

Napoléon IIIはアロー戦争(第2次アヘン戦争、1856年[US080]6月28日〜1860年[US084]10月/11月)でもチャイナに勝利した。

また、インドシナ出兵(1858年[US082]8月31日〜1862年[US086]6月5日)でベトナム(阮朝  (グェン朝、越南))に侵攻・勝利し、カンボジアを巡ってタイとベトナムが争う間に1863年[US087]8月11日カンボジアを保護国化することに成功(フランス・カンボジア保護条約の締結)し、インドチャイナ侵略も前進させた。

しかし、メキシコ出兵(1861年[US085]12月8日〜1867年[US091]6月21日)に失敗してNapoléon IIIは権威を失墜し、普仏戦争(1870年[US094]7月19日〜1871年[US095]5月10日)中の1870年[US094]9月2日にNapoléon IIIは捕虜となってしまった。 

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文責:鵄士縦七