Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

イギリスの地政学10:1898.9.18ファショダ事件

さて、アフリカ分割に関連するイギリスの地政学を学んで行く。今回はファショダ事件。最初に、クールにザックリまとめる。

1898年[US122]9月18日スーダンのファショダ村でイギリス軍とフランス軍が遭遇。フランスが譲歩し撤退したため、以降の両国の関係は良好になった。

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オムドゥルマンの戦い(Battle of Omdurman、1898年[US122]9月2日)から数週間後の9月18日にホレイショ・ハーバート・キッチナーが率いるイギリス軍の船隊ナイル川を南下してファショダ村に到着、フランス軍と遭遇した(ファショダ事件)。

フランスは1881年にはチュニジアを、次いでセネガル、マリ、ニジェール、チャドのサハラ砂漠一帯を領有した。加えて、紅海沿岸のジブチ(仏領ソマリランド)を領有していた。

そして、ファショダは、イギリスの植民地であるカイロとケープタウンを結ぶ直線とフランスの植民地であるダカール(セネガル)とジブチを結ぶ直線が交差するアフリカ分割戦略上非常に重要な地点であった。

フランスとしては、将来のドイツとの衝突に備えてイギリスとの関係を悪化させることはできず、ドレフュス事件等の不祥事で当時のフランス軍は世論の支持を失っていたため、イギリスとのスーダンでの戦争に世論の賛同を得られる見込みは少なかった。

結局、フランスが譲歩して撤退した。このファショダ事件以降にイギリスとフランスの関係が良好になって行くことがポイントである。

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フランス復古王政末期の1830年[US054]6月に始まったアルジェリア侵略は七月王政にも引き継がれ、1847年[US071]アブド・アルカーディルの降伏をもって侵略は完了した。

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1881年[US105]フランス第三共和政がチュニジアに侵攻。フランスが勝利してバルドー条約(5月12日)を締結してチュニジアの防衛・外交権を獲得、事実上の保護国化した。  

 

文責:鵄士縦七