【再掲】ドイツの地政学11:1871.1.18ドイツ帝国の成立(ドイツ統一)
【再掲にあたっての備忘録】1871年[US095]1月18日ホーエンツォレルン家が(ハプスブルク家を排除し)ドイツ統一を果たした。Bismarckはオーストリアを破り、フランス第二帝政を破り、南ドイツ連邦の取り込みにも成功して、ドイツ帝国を成立させ、あっという間にプロイセン王国を列強の一角へと押し上げたのだ。
しかも、この後は一転して外交戦略を展開して行くことになる。天才である。
ドイツ帝国すなわちプロイセン王国の地政学、今回は普仏戦争の最中に宣言されたドイツ帝国の成立すなわちプロイセン主導によるドイツ統一を学ぶ。事実だけ記載する。
1871年[US095]ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ帝国の成立が宣言された。
1871年[US095]1月18日ホーエンツォレルン朝プロイセン王国の国王ヴィルヘルム1世が、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間において、ドイツ帝国の皇帝を戴冠。遂にプロイセンによるドイツ統一が達成された。
Otto von Bismarck1862年[US086]9月23日に首相となってから9年弱、その才能を理解し信頼して任せたプロイセン国王Wilhelm I、参謀総長Helmuth von Moltkeの存在も欠かせなかったと思うが、Bismarckの政治・外交手腕はスゴイとSynmeは思う。
ドイツ統一までの19世紀の欧州を以下の様にまとめることもできそうだ。
- 天才Napoléon Bonaparte(皇帝在位:1804年5月18日〜1814年4月11日、1815年3月20日〜6月22日)によって短期間に成し遂げられたフランスの覇権がロシア、イギリス等により覆され、
- ウィーン体制でイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン、フランスによるパワーバランスが重視され、
- 1848年革命やクリミア戦争(ロシア・トルコ戦争、1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)でその均衡が綻び、
- その綻びにNapoléon III(Charles Louis-Napoléon Bonaparte、在位:1852年12月2日〜1870年9月4日)が付け入って敗戦国フランスの地位を高めたものの、
- そのNapoléon IIIを利用する形で、Otto von Bismarck(プロイセン首相在位:1862年9月23日〜1872年12月21日、1873年11月9日〜1890年3月18日、ドイツ帝国首相在位:1871年3月21日〜1890年3月20日)がドイツ統一を仕上げた。
あとはSynmeが「へ〜」と思ったことをいくつか。
- 20世紀末に起こった1990年[US214]10月3日の西ドイツによる東ドイツの編入はドイツ再統一(独: Deutsche Wiedervereinigung、英: German reunification)と呼ばれ、今回学んだ19世紀末に達成された1871年[US095]1月18日のプロイセン主導の北ドイツ連邦諸邦と南ドイツ諸邦とを含むドイツ帝国の成立はドイツ統一(独: Deutsche Reichsgründung, 英: Unification of Germany) と呼ばれ、区別されているそうだ。
- ドイツ人としての民族主義が高まる中、プロイセン国王Wilhelm Iはプロイセンの国民主義を尊重してドイツ統一を拒否していたようだ。結局、Otto von Bismarckの説得等もあって、Wilhelm Iは初代ドイツ皇帝となった。
- ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で、初代ドイツ皇帝の戴冠が執り行われたわけだが、Synmeは「なにも、そんなことを敵地で戦争中にしなくても...」と思った。一方で、ナショナリズムのダイナミズムとの関係で、北ドイツ連邦に帰る前に、一刻もはやく。フランスの侵略を食い止めたプロイセンによる南ドイツ連邦までを含めたドイツ統一の宣言が必要だったのかもしれないなと、考えた。まだまだ不勉強である。
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1853年[US077]フランスとイギリスの支援を取り付けたオスマン帝国がロシアに宣戦布告して、クリミア戦争が勃発した。ロシアはフランス第二帝政、オスマン帝国、イギリス及びサルディーニャの同盟軍に敗北。1856年[US080]にパリ条約が締結され、1840年ロンドン条約の内容が再確認された。
Napoléon IIIがオスマン帝国から獲得したキリスト教徒の排他的保護権にロシアが反発。1854年[US078]フランス第二帝政はイギリスと共にクリミア戦争に参戦・勝利し、1856年[US080]Napoléon IIIの主導でパリ条約を締結。フランス第二帝政は国際関係における発言力を増した。
文責:鵄士縦七