Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

オーストリアの歴史04:1908.10.6ボスニア・ヘルツェゴビナ併合

今回はオーストリアの地政学として、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。 

1908年[US132]10月6日オーストリア=ハンガリー二重帝国は、ボスポラス海峡及びダーダネルス海峡の通航権を保障してロシアの承認を得て、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。

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1878年[US102]7月13日に締結されたベルリン条約の結果、オーストリア=ハンガリー二重帝国は、サン・ステファノ条約では自治権が付与されると定められていたボスニアを占領していた。

占領開始から30年、1908年[US132]7月3日にオスマン帝国内で青年トルコ革命(Young Tuk Revolution、青年トルコ人革命 - WikipediaYoung Turk Revolution - Wikipedia)が勃発した。

7月下旬にオスマン帝国皇帝がオスマン帝国憲法 - Wikipedia(Ottoman constitution of 1876 - Wikipedia)の復活を宣言して革命自体は収束した。しかし、革命後の混乱期に乗じて、1908年[US132]10月6日オーストリア=ハンガリー二重帝国がボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言した(ボスニア・ヘルツェゴビナ併合 - Wikipedia)。 

実は、オーストリア=ハンガリー二重帝国は9月にロシアと秘密裏に「ロシアがオーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合を承認するのと引き換えに、オーストリアはロシアのボスポラス海峡及びダーダネルス海峡の通航権を保障する」というレシプロを合意していたので、併合は平和裡に行われた。

オーストリア=ハンガリー二重帝国の思惑としては、これでフランス第三共和政とイギリスがロシアのボスポラス海峡及びダーダネルス海峡の通航権を承認すれば、八方丸く収まると考えていたようだ。

実際、英露協商の締結により三国協商が成立したばかりであったから、オーストリアの思惑も根拠がないわけではなかった。 ところが…

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ボスニア・ヘルツェゴビナ併合が宣言される1日前には、ブルガリアが独立を宣言していた(1908年[US132]10月5日、Cf.フェルディナンド1世 (ブルガリア王) - Wikipedia)。オーストリア=ハンガリー二重帝国はこのブルガリア独立を承認していた。

青年トルコ革命の勃発により、バルカン半島の諸民族の動きが活発化していた。

 

文責:鵄士縦七