Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ロシアの地政学11:1807-1812英露戦争

ひきつづきロシアの地政学を学ぶ。今回は英露戦争をロシアの観点から学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

ティルジットの和約によりフランスと協調したロシアは1807年[US031]イギリスに宣戦布告し、英露戦争が勃発。デンマークスウェーデン、イラン、トルコ等でイギリスと対立した。Napoléonのロシア遠征に対抗するため1812年[US036]エレブルー条約でロシアはイギリスと講和した。

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Yekaterina II亡き後、ロシアとイギリスの関係は同盟と対立を繰り返してきた。ロシアは、第二次対仏大同盟でイギリスと同盟したが、第2次武装中立同盟でイギリスと対立。第三次対仏大同盟、第四次対仏大同盟でイギリスと同盟したが、オーストリアプロイセンという陸戦のパートナーがフランス第一帝政に敗北する中、ティルジットの和約によりフランスと協調することを選び、イギリスと対立することとなった。 

ナポレオン戦争(1803年[US027]5月16日〜1815年[US039]11月20日)において、デンマークは中立の立場を保っていた。しかし、1807年[US031]9月デンマーク海軍に対してイギリス海軍が攻撃すると、ロシアはイギリスに対して宣戦を布告し、英露戦争(1807年[US031]9月〜1812年[US036]7月18日)が勃発した。 

ヨーロッパにおいては、イギリス、スウェーデンとロシア、デンマークノルウェーという同盟同士の戦いであった。結果的に、1809年[US033]以降デンマークフランス第一帝政の同盟国としてナポレオン戦争終結まで戦うことになる。

バトルフィールドは、スウェーデン(第2次ロシア・スウェーデン戦争(フィンランド戦争、1808年[US032]2月〜1809年[US033]9月))、イラン(第1次イラン・ロシア戦争(1804年[US028]〜1813年[US037]10月24日))、トルコ(1806-1812ロシア・トルコ戦争(1806年[US030]〜1812年[US036]5月28日))と多地域にわたり、地中海からの回航中のロシア艦隊が、イギリス海軍リスボンで拿捕され、英露戦争終結までポーツマスで拘禁されることもあった。基本的に、ロシアは陸戦に勝利し、イギリスは海戦に勝利すると言う展開で散発的な戦闘が継続した。

しかし、ロシアとフランスとの協調関係も長続きはせず、1810年[US034]ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開した。

1812年[US036]4月ロシアはイギリス、スウェーデンと3国間の対ナポレオンの秘密協定を結んだ。同年6月にNapoléonのロシア遠征1812年[US036]6月22日〜12月14日)が開始されると、英露両国は7月18日に正式な講和条約であるエレブルー条約を締結した。

ニッポンが学ぶべきは、このロシアの外交だとSynmeは思う。フランスと協調したまま、かつ、イギリスと戦争を続けたまま、ロシアはイギリスと貿易を再開。再開後数年でスウェーデンも引き入れて秘密裏にイギリスと和解しておき、フランスが侵攻して来ると1ヶ月も経たない間にイギリスとの正式講和を発表、結果的にナポレオン戦争戦勝国に名を連ねることになるのだ。

よく何でもかんでも態度をはっきりしたがる人がいるが、主権国家の外交上は態度を鮮明に打ち出すべき時と、態度は曖昧なまま実質的な外交交渉をすべき時の両方があるのだ。

Synmeは不勉強で詳細を知らないが、イギリスとの講和だって、貿易→秘密協定→講和という3ステップを踏んでいるから成り立つのであろうし、イギリスと貿易を再開してもNapoléonが侵攻してくるまでに2年と言う歳月がかかっているのだからイギリスとの貿易再開=フランスと開戦ではないのである。

 

文責:鵄士縦七