アメリカの地政学15:1945-1991冷戦Vol.6
続いて、ゆげひろのぶ氏の3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編に【冷戦第三波】を学ぶ。最初に、【冷静第三波】の緊張が高まっていく過程についてクールにザックリまとめる。
折角のパリ和平協定調印にも関わらず、アメリカはベトナムを放置。南アジアではベトナム、ラオス、カンボジアに共産国家が誕生し、中東でもアフガニスタンに共産国家が誕生した。米ソデタントの流れは続いていたが、イラン革命を背景としてイスラム原理主義革命がアフガニスタン経由で飛び火してくることを懸念したソ連のアフガン侵攻(1979年[US203])によって、米ソ対立は第三かつ最後のピークに達した。
前回までの冷戦:
第二次世界大戦中から燻っていた米ソの対立は、Trumanの原爆投下により決定的となった。Trumanの封じ込め政策・欧州復興計画やチェコスロバキア政変を端緒とするNATO設立により、欧州での対立が高まって行った。アメリカの予想より早いソ連の原爆保有と共産チャイナの成立によりアジアでの東西バランスが崩れた結果として、1950年[US174]朝鮮戦争が勃発した。
Truman不出馬・退任、Stalin死去。EisenhowerとKhrushchevにより、朝鮮戦争および第1次インドシナ戦争は休戦となり、1959年[US183]のKhrushchev訪米に至る。しかし、アメリカの数多くの軍事同盟締結、ワルシャワ条約機構設立など東西陣営の対立の構図は鮮明になっていった。ソ連はICBM発射実験および人工衛星打上げを成功させミサイル開発競争において優位に立った。
Eisenhower在任中のU-2撃墜事件(1960年[US184]5月1日)を機にアメリカとソ連の関係は悪化。J.F.Kennedyが就任するも、キューバ革命や東ドイツからの人口流出を背景にJ.F.KennedyとKhrushchevはベルリンとキューバで対立を深めた。ベルリンの壁建設でベルリン危機は回避されたが、キューバ危機(1962年[US186]10月16-28日)勃発により米ソの対立は冷戦第二にして最悪のピークに達した。
キューバ危機を受けて、部分的核実験禁止条約が締結されるなどした。J.F.Kennedyが暗殺され、Johsonは(Eisenhowerが始め、J.F.Kennedyが継続した)ベトナム戦争を拡大したが行き詰まる。Nixonが就任すると、ソ連、中国との緊張緩和を進め、SALT I 妥結(1972年[US196])、ベトナム戦争停戦(1973年[US197])を達成した。
【冷静第三波】の緊張が高まっていく過程に起こった出来事は以下の通り。
1972年6月17日 ウォーターゲート事件が発覚。民主党の選挙対策本部があるウォータゲートビルで5人の男が盗聴器を仕掛けている最中にガードマンに捕まった(3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編p.204)。
1972年11月7日 Nixon大統領再選。
1973年1月27日【冷戦第二波BOTTOM】パリ和平協定調印。
1973年1月29日 Nixon大統領がベトナム戦争終結宣言。3月29日アメリカ軍の撤退完了、ただしアメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し残留、軍事物資の供給も継続
1973年7月17日 アフガニスタンでクーデター。王制を廃止し、アフガニスタン共和国成立。
1973年10月6日 第4次中東戦争勃発。6年前の第3次中東戦争でイスラエルに占領された領土の奪回を目的としてエジプト・シリア両軍がそれぞれスエズ運河、ゴラン高原正面に展開するイスラエル軍に対して攻撃を開始した。
1973年10月16日 石油輸出国機構 (OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は、原油公示価格を21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定する(第1次石油危機)。
1974年8月9日 Nixon大統領辞任、Fordが大統領に昇格。Nixonはアメリカ史上唯一の辞任した大統領である。
1975年[US199]3月10日 ベトナム民主共和国は「アメリカの再介入はない」と判断し、南北ベトナム統一を目指してベトナム共和国軍に対する全面攻撃(Ho Chi Minh作戦)を開始。
1975年4月17日 民主カンボジア成立。カンボジアでクメール・ルージュがプノンペンを制圧、実権を掌握。
1975年12月2日 ラオス人民民主共和国成立。1974年に右派、中立派、左派(パテート・ラーオ)連合によるラオス民族連合政府が成立していたが、サイゴン陥落を受けて連合政府が王政の廃止を宣言した。
1976年[US200]7月2日 ベトナム社会主義共和国成立。ベトナム南北統一。
1976年11月2日 Ford大統領が選挙に敗れる。Fordはアメリカ史上唯一の選挙で勝利したことのない大統領である。すなわち、Kennedy暗殺により選挙の洗礼を受けることなく副大統領となり、Nixon辞任によりそのまま大統領に昇格した異例の政治家だった。
1977年1月20日 アメリカ第39代大統領Carter就任
1978年4月27日 アフガニスタンでクーデター(4月革命)。アフガニスタン人民民主党が政権を掌握し、アフガニスタン民主共和国成立。
1978年9月5日 Carter大統領、イスラエル首相、エジプト大統領の三首脳が会談。和平合意に達する(キャンプ・デービッド合意)。
1979年1月1日 米中国交正常化
1979年2月11日 イラン革命勃発。反体制勢力が権力掌握し、パフラヴィー朝滅亡。新米国家だったイランが反米国家になってしまった。
イラン・パフラヴィー朝においては、1951年8月19日に親米英的なMohammad Rezā Shāh Pahlavi皇帝が権力を回復。1955年2月24日にイギリス、トルコ、パキスタン、イラク王国と共にバグダード条約を調印し、中東条約機構(Middle East Treaty Organization)を発足させていた。中東条約機構には、アメリカがオブザーバー参加していた。
イラン革命によりイランでの石油生産が中断したことと、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定したことにより、原油価格上昇(第2次石油危機)
1979年4月1日 イラン・イスラーム共和国成立。
1979年11月4日 イランアメリカ大使館占拠事件勃発(〜1981年1月20日)。イラン元皇帝を受け入れたアメリカに抗議するデモ参加者がアメリカ大使館を占拠し、外交官・海兵隊員・その家族を人質に取って、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しを要求した。Carter大統領の下、アメリカ軍による人質救出作戦は成功せず、元皇帝の死(1980年7月27日)の後、交渉を経て、1981年1月20日Reagan大統領の就任まで人質は解放されなかった。
1979年12月24日【冷戦第三波TOP】ソ連がアフガニスタンに侵攻。アメリカはパキスタンを経由して非軍事的物資と活動資金をムジャーヒディーン(アラビア語で「ジハードを遂行する者」を意味するムジャーヒドの複数形。この場合は、共産主義政権とソビエト連邦軍に対する抵抗運動の兵士たち)に提供していたが、これら支援は秘密裏に進められており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは避けられていた。ソ連の侵攻により明示的に米ソは対立することとなった。 しかし、イラン革命成功を背景とし、ソ連としてはアフガニスタンでもイスラム原理主義の革命が起こればソ連にも飛び火する危険性があった。
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冷戦第三波に関与したのは、Nixon、Ford、Carter、Reagan、G.H.Bushの5人の大統領だ。
- Richard Milhous Nixon第37代大統領(1969年[US193]1月20日〜1974年[US198]8月9日)
- Gerald Rudolph Ford第38代大統領(1974年[US198]8月9日〜1977年[US201]1月20日)
- James Earl Carter Jr.第39代大統領(1977年[US201]1月20日〜1981年[US205]1月20日)
- Ronald Wilson Reagan第40代大統領(1981年[US205]1月20日〜1989年[US213]1月20日)
- George Hebert Bush第41代大統領(1989年[US213]1月20日〜1993年[US217]1月20日)
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冷戦第三波に関与したソ連の書記長は以下の通り。
- Leonid Il'ich Brezhnev書記長(1964年[US]10月14日〜1982年[US]11月10日)
- Yurii Vladimirovich Andropov書記長(1982年[US]11月12日〜1984年[US]2月9日)
- Konstantin Ustinovich Chernenko書記長(1984年[US]2月13日〜1985年[US]3月10日)
- Mikhail Sergeevich Gorbachev書記長(1985年[US]3月11日〜1991年[US]8月24日)
文責:鵄士縦七