フランスの地政学10
前々回まで8回に渡ってNapoléonの戦争を学んできた。フランスの視点で、ナポレオン戦争をクールにザックリまとめると以下の通り。
1803年[US027]イギリスに宣戦布告されてナポレオン戦争が勃発。フランス第一帝政がイギリス侵攻計画を立てると1805年[US029]イギリスは第三次対仏大同盟を結成した。トラファルガーの海戦でフランス・スペイン連合艦隊がイギリス艦隊に敗北するも、ウルム戦役でオーストリア軍に勝利し、アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍に勝利。プレスブルクの和約により、オーストリアはイストリアとダルマチアを割譲、イタリア王国を承認して同国にヴェネツィアを割譲した。フランス軍は1806年[US030]にはナポリ王国を征服した。
1806年[US030]ライン同盟が成立すると、プロイセンは第四次対仏大同盟を成立させた。フランスはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに勝利してベルリンを制圧、1807年[US031]アイラウの戦いでロシアを撤退させて辛勝、フリートラントの戦いでロシアに大勝、臨時首都ケーニヒスベルクを占領した。フランスはティルジットの和約でロシア、プロイセンとそれぞれ講和。エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドはワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。
1807年[US031]フランス第一帝政はポルトガルの攻略を開始。リスボンを攻略するが、ポルトガル女王は出航・逃亡。Napoléonがスペインの直接支配を目論むと、1808年[US032]スペイン独立戦争が勃発・泥沼化。1809年[US033]オーストリアはイギリスと第五次対仏大同盟を結んで侵攻を開始した。Napoléonはヴァグラムの戦いでオーストリアに勝利し、シェーンブルンの和約でトリエステとダルマチアを割譲、8,500万フランの賠償金を課した。1811年[US035]教皇領を併合し、Napoléonは絶頂期を迎えた。
1812年[US036]Napoléonはロシアに遠征するも撃退された。ロシア、イギリス、プロイセンは第六次対仏大同盟を結成した。Napoléonはリュッツェンの戦いやバウツェンの戦いでロシア・プロイセン連合軍に勝利してオーストリアの仲介で休戦するが講和会議は決裂。フランス第一帝政は、ロシア、イギリス、プロイセン、オーストリア、スウェーデンと戦うことになった。Napoléonはライプツィヒの戦いに敗北してフランスへ撤退。東からの攻勢に加え、南からもイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がフランスに侵攻、パリは陥落した。フォンテーヌブロー条約によりNapoléonは退位しエルバ島に追放。フランス王政が復古した。
ウィーン会議(1814年[US038]〜1815年[US039])は遅々として進まなかったが、Napoléonのエルバ島脱出と復位の報に接して妥協が成立した。
Napoléonはエルバ島を脱出し再び帝位に就いた。一方、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンは第七次対仏大同盟を結成。スウェーデン、ネーデルランド、ライン同盟も参加した。Napoléonはリニーの戦いでプロイセン軍を破ったが壊滅には至れなかった。Napoléonはワーテルローの戦いでイギリス・オランダ連合軍に敗北した。6月22日Napoléonは再び退位、セントヘレナ島へ流罪となった。11月20日第二次パリ条約の締結をもって、フランスはナポレオン戦争に敗北した。
良くも悪くもNapoléonの天才的な軍略によりフランス第一帝政は勝ち続けるわけだが、英葡永久同盟に支えられたポルトガルがNapoléonの躓きの元になった。
ポルトガルのリスボン攻略には成功するものの、ポルトガル女王には逃げられてしまったNapoléonは第二次対仏大同盟以来の同盟国スペインの直接支配を目論んだ。これがスペイン民衆の反感を買ってスペイン独立戦争となり、泥沼化。ポルトガル、スペインと失敗が続いたことで、無理にロシア遠征を目論んだNapoléonの判断が直接的にパリ陥落にまで至る転落を招いてしまったのかもしれないとSynmeは思う。
言い方を変えれば、オーストリアに背を向けたことがNapoléonの最大の失敗だったと考えることもできると思う。実際、ロシア遠征を(当時スペイン独立戦争に張り付けていた)フランス精鋭部隊とともに行っていたら結果が違ったかもしれない。
Synmeが過去8回に掲載したフランスの地政学のうち、ナポレオン戦争の"クールにザックリ"部分も再掲しておく。
Synmeの能力不足で学習に長く掛かってしまったフランス革命戦争およびナポレオン戦争、至らないところは多いと思うが以上でとりあえずいったん終了です。
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【1805-1806第三次対仏大同盟】1803年[US027]イギリスはアミアンの和約を破棄してフランスへ宣戦布告。ナポレオン戦争が勃発した。フランス第一帝政のイギリス侵攻計画に対抗して、1805年[US029]イギリスは第三次対仏大同盟を結成。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、ナポリ、スウェーデンの5ヶ国連合軍と戦うこととなった。トラファルガーの海戦においてフランス・スペイン連合艦隊がイギリス艦隊に敗北するも、Napoléonはウルム戦役でオーストリア軍に勝利し、アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍に勝利。プレスブルクの和約により、オーストリアはフランスにイストリアとダルマチアを割譲、イタリア王国を承認して同国にヴェネツィアを割譲した。1806年[US030]にフランス軍がナポリ王国を征服。第三次対仏大同盟はイギリス、ロシア、スウェーデンの3ヶ国のみになってしまった。
【1806-1807第四次対仏大同盟】1806年[US030]ライン同盟が成立すると、プロイセンは第四次対仏大同盟を成立させた。フランスは、プロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデンの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。フランスはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに勝利してベルリンを制圧、プロイセン王は東プロイセンへ逃れた。フランスもポーランドに進軍、1807年[US031]アイラウの戦いでフランスはロシアを撤退させて辛勝、フリートラントの戦いでロシアに大勝、臨時首都ケーニヒスベルクを占領した。フランスとロシア、プロイセンは、それぞれティルジットの和約で講和。プロイセンは完全に敗北していたので、フランスとロシアの講和をもって第4次対仏大同盟は崩壊した。エルベ川以西にはヴェストファーレン王国が置かれ、ポーランドはワルシャワ公国として復活し、いずれもフランスの衛星国となった。一方、この条約によりフランスとロシアとの間には協調関係が成立した。
【1809第五次対仏大同盟】1807年[US031]フランス第一帝政は大陸封鎖令に参加しない唯一の大陸国ポルトガルの攻略を開始した。リスボンを攻略するが、ポルトガル女王は出航・逃亡。ポルトガルの植民地獲得に失敗する。Napoléonがスペインの直接支配を目論むと、民衆の反発は1808年[US032]スペイン独立戦争に発展し、フランス第一帝政は陸戦で初の敗北を喫する等して泥沼化。Napoléonがスペインで苦戦する機に1809年[US033]オーストリアはイギリスと第五次対仏大同盟を結んで侵攻を開始した。Napoléonは直接指揮下の初敗北がありながらもヴァグラムの戦いでオーストリアに勝利した。シェーンブルンの和約でオーストラリアはフランスにトリエステとダルマチアを割譲、8,500万フランの賠償金を課せられた。 1811年[US035]教皇領はフランスに併合され、Napoléonは絶頂期を迎えた。
【1812-1814第六次対仏大同盟】1812年[US036]Napoléonはイギリスとの貿易を再開したロシアに遠征するも焦土作戦により撃退される。一方、ロシアはイギリスとエレブルー条約を締結して和解しており、これに1813年[US037]プロイセンが参加。第六次対仏大同盟に発展して行く。Napoléonもリュッツェンの戦いやバウツェンの戦いでロシア・プロイセン連合軍に勝利しオーストリアの仲介で休戦協定が結ばれたが、講和会議は決裂。オーストリア、スウェーデンもフランスに宣戦布告する。ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍はグロスベーレンの戦い、デネヴィッツの戦い、カッツバッハの戦い等に勝利。Napoléonはドレスデンの戦いに勝利するも追撃に失敗して戦力を失う。Napoléonはライプツィヒの戦いに敗北してフランスへの撤退する。東からの攻勢に加え、南からもイギリス・ポルトガル・スペイン連合軍がフランスに侵攻、パリは陥落した。フォンテーヌブロー条約によりNapoléonは退位しエルバ島に追放。フランス王政が復古した。
【1814-1815ウィーン会議】ウィーン会議(1814年[US038]〜1815年[US039])は遅々として進まなかったが、Napoléonのエルバ島脱出と復位の報に接して妥協が成立した。オーストリアはドイツ連邦の盟主となりロンバルド=ヴェネト王国の国王となった。ロシアは、フィンランド大公国とポーランド立憲王国を承認させ、オスマン帝国からベッサラビアを獲得。プロイセンはラインラントを含め東西に領土を拡大。イギリスは、フランスからマルタ島を、オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得、何より制海権を確立させた。スウェーデンはデンマークからノルウェーを獲得してスウェーデン=ノルウェー連合王国となった。フランス復古王政はセネガルを植民地として承認された。その他、ネーデルラント王国が成立、サルデーニャ王国が領土拡大、ナポリ王国復古、スペイン王国復古、スイス連邦は永世中立国として承認された。
【1815第七次対仏大同盟】1815年[US039]2月26日Napoléonはエルバ島を脱出し3月20日パリ入城、再び帝位に就いて軍の動員に取り掛かった。一方、オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンは3月25日に第七次対仏大同盟を結成。スウェーデン、ネーデルランド、ライン同盟も参加した。Napoléonはリニーの戦いでプロイセン軍を破ったが壊滅には至れなかった。Napoléonはワーテルローの戦いでイギリス・オランダ連合軍と激突したが、フランス軍別働隊のの追撃を振り払ったプロイセン軍が戦場へ到着してフランス軍は敗北した。6月22日Napoléonは再び退位、セントヘレナ島へ流罪となった。11月20日第二次パリ条約の締結をもって、ナポレオン戦争は正式に終結した。フランスは7億フランの賠償金の支払いと同盟軍のフランス駐留と駐留経費負担も認めさせられた。
文責:鵄士縦七