ロシアの地政学08:1800-1801第2次武装中立同盟
ロシアの地政学、今回はWikipediaで第2次武装中立同盟を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。
イギリスがマルタ島に軍を駐在させたことに対抗して、ロシアは デンマーク、 スウェーデン、プロイセンと共に第2次武装中立同盟(1800年[US024]〜1801年[US025])を結成して、フランスと自由貿易を行った。コペンハーゲンの海戦(1801年 [US025])でデンマークがイギリスに敗北し、同盟は破綻した。
Yekaterina II亡き後、まずイギリスと同盟したロシアだったが、同盟国であるにもかかわらずイギリスに対抗。フランスと自由貿易を始めてしまう。
まずはマルタ島の話。第二次対仏大同盟の契機にもなったエジプト遠征の途中、1798年[US022]にNapoléonは寄港したマルタを占拠。しかし、1800年[US024]マルタ民衆がイギリスの力を借りて暴動を起こしてフランスを追放。イギリス軍がマルタ島に駐在することとなった。(上記はマルタの歴史 | Travelsun maltaを参照しました。)
同1800年[US024]ロシアはこれを不満として、デンマーク、スウェーデン、プロイセンと共に第2次武装中立同盟を結成。フランスと自由貿易を始めた。
海上封鎖を行っていたイギリスはこの第2次武装中立同盟により海上封鎖が無意味になることを恐れデンマーク艦隊をコペンハーゲンの海戦(1801年[US025]4月2日)で打ち破った。ロシア艦隊は北極海の氷が溶けずデンマークと合流できず、スウェーデンは静観を決め込み、プロイセンには十分な海軍がなかったというのが背景だった。(上記はコペンハーゲンの海戦 - Wikipediaを参照しました。)
結局、デンマークはフランス第一帝政の唯一の対等な同盟国として1809年からフランス側に立ち参戦することとなってしまった。ロシアは最終的にナポレオン戦争の戦勝国となるのだから、 デンマークは割を食ったとSynmeは思う。
第2次武装中立同盟について、武装中立同盟 - Wikipediaから下記の通り引用する。コペンハーゲンの海戦の日付のみSynme注記。
1800年から1801年にかけても、イギリスのマルタ島占領問題を契機として二度目の武装中立同盟が結成された。この際の参加国はロシア、デンマーク、スウェーデン、プロイセンである。
イギリスとデンマークは、これが元で対立し、コペンハーゲンの海戦(1801年[US025]4月2日)に至った。これは当時、フランスのナポレオン・ボナパルト将軍が起こしたエジプト遠征に端を発した、フランスによるイギリス牽制の意味も込められていた。
イギリスのデンマーク攻撃によって、同盟は破綻したが、この時、イギリスとフランスとが徹底的に対立したことがナポレオン戦争の本格化に繋がり、この武装中立同盟もその伏線となった。
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イギリスの対米海上封鎖に対抗して、ロシアはスウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルと共に第一次武装中立同盟(1780年[US004]〜1783年[US007])を結成した。ロシアはアメリカの独立を間接的に助けた。
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オーストリアがラシュタット会議を引き延ばす中、Napoléonがエジプト遠征に失敗。Napoléonの不在を好機と見たオーストリアは1798年[US022]第二次対仏同盟を結成し、再度参戦した。フランスは、イギリス、オーストリア、ロシア、トルコの4ヶ国連合軍と戦うこととなった。オーストリアは一時イタリアを奪還したが、1799年[US023]クーデターにより第一統領となったNapoléonにマレンゴの戦い(1800年[US024])で敗北、ホーエンリンデンの戦い(同年)でドイツ方面でも敗北。 1801年[US025]リュネヴィルの和約により、オーストリアはバタヴィア共和国、ヘルヴェティア共和国、チザルピーナ共和国、リグリア共和国の承認を再確認し、フランスによるラインラントの併合を承認した。再びイギリスのみが交戦を続けることとなったが、1802年[US026]アミアンの和約を締結してフランスと講和。フランス革命戦争はフランスの勝利に終わった。
文責:鵄士縦七