Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

地政学を学ぶフレームワーク21

さて、いよいよ第一次世界大戦へと学習を進めて行く予定である。

そのために、Great Game終焉の時期におけるドイツの地政学、イタリアの地政学を整理して学習し、併せてオーストリアの歴史を学ぶ必要がある。その上で、バルカン戦争を学んで行くことで、第一次世界大戦勃発までの流れを理解したい。

ドイツ、イタリア、オーストリア、バルカン半島と盛り沢山である。復習と新規学習を取り混ぜながら、ひとつひとつクールにザックリ学んで行きたい。

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さて。既に学んだところだが、プロイセンによるドイツ統一を振り返るところから始めて行きたい。

おおまかな予定としては、イタリアの地政学、オーストリアの歴史を足しながら「ドイツ統一」を復習し、かつ、植民地獲得に関するドイツの地政学を保管して行く、という感じで進めようとSynmeは考えている。

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今日はドイツ連邦の成立までと、プロイセンがドイツ統一への道を歩み始めるところまでを学ぶ。

1806年[US030]7月12日、Napoléonは第三次対仏大同盟を打ち破りフランス第一帝政は西南ドイツ一帯をライン同盟(Rheinbund)として保護国化した。

ライン同盟の成立を受けて、同1806年[US030]8月6日に神聖ローマ帝国の解散が宣言された。つまりドイツ第一帝国が終焉したわけである。

プロイセンは10月6日に第四次対仏大同盟(1806年[US030]10月6日〜1807年[US031]7月7日、参加国はプロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデン)を成立させてロシアと共にフランス第一帝政と戦った。しかし、プロイセンは敗北してフランスをドイツから追い出せなかったばかりかエルベ川以西の領土とポーランドを失った。

1813年[US037]3月17日、プロイセンはフランス第一帝政に宣戦布告し、ロシア、イギリスと第六次対仏大同盟が成立。ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で、プロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデン連合軍はフランス軍を破った。1813年[US037]10月19日、ライン同盟を解体してドイツをNapoléonの支配から解放した。

1815年[US039]6月8日、ウィーン会議(1814年[US038]9月1日〜1815年[US039]6月9日)を経て、ドイツ連邦(1815年[US039]6月8日〜1866年[US090]8月23日)が成立した。オーストリアが連邦議会議長を務め、プロイセン王国など39の領邦が同盟を構成した。換言すると、ドイツ第一帝国がオーストリアを盟主として形式的に復活したわけである。

ちなみに、旧神聖ローマ帝国の領域を範囲としたため、オーストリアおよびプロイセンの領土は連邦の内と外にまたがっていた。

プロイセンは国力を向上させながら「ドイツの盟主」の座を目指して19世紀後半以降の外交・戦争を展開して行くわけである。

 

そして、その端緒が第1次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1848年[US072]3月24〜1852年[US076]5月8日)であった。

シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国はデンマーク王国の勢力下にあったが、住民の多くはドイツ系であり自治とドイツへの統一を求めていた(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題)。

デンマークが両国を併合しようとしたことにシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国が反発した。1848年[US072]3月24日、プロイセンはシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を支援して、デンマーク及びスウェーデン義勇軍と開戦したが敗北した。 

 

文責:鵄士縦七