イタリアの地政学02:1853.3.28-1856.3.30クリミア戦争
今回はイタリアの地政学としてクリミア戦争を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。
1853年[US077]サルディーニャ王国はフランス第二帝政とイギリスの歓心を得るためにクリミア戦争(〜1856年[US080])に参戦した。参戦の見返りは特になかったが、中立の立場をとったオーストリアの孤立化を招くことにはつながった。
第1次イタリア独立戦争(1848年[US072]3月23日〜1849年[US073]3月24日)以来、オーストリアに対して有効な手を打てていなかったサルデーニャ王国は、フランス第二帝政とイギリスの歓心を得るためにクリミア戦争(ロシア・トルコ戦争、1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)に参戦した。
イタリア民族にとっては残念ながら、クリミア戦争の講和会議(パリ条約、1856年[US080]3月30日)ではオーストリアとイタリアの領土問題は取り上げられず、サルデーニャ王国としては参戦の見返りとして、特にフランス第二帝政やイギリスから支援を取り付けることはできなかった。
ちなみにパリ条約の主な内容は以下の通りだそうだ。
https://www.y-history.net/appendix/wh1202-015.html
- オスマン帝国(トルコ)の領土尊重
- 1841年のダーダネルス=ボスフォラス海峡閉鎖と黒海中立化の確認
- ドナウ川自由航行の原則と航行国際監視委員会の設置
- ロシアはベッサラビアをモルダヴィアに譲る
- モルダヴィア・ワラキア(後のルーマニア)、セルビアの自治の承認など。
ただし、結果としてオーストリアの孤立化には役立った様だ。クリミア戦争の対立の構図は、ロシア+ブルガリア義勇兵 VS フランス第二帝政+イギリス+オスマン帝国+サルデーニャ王国というものであったからだ。
成果は得られなかったとはいえ、外交戦略上の判断として、直接の利害のない近隣の戦争に参加するべき場合もあるという「当たり前」の一例としては参考になるとSynmeは思う。
文責:鵄士縦七