Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学19:1883-1885清仏戦争、1885天津条約

ひきつづきフランス第三共和政によるフランス領インドシナ形成の過程を学ぶ。今回は清仏戦争、最初にクールにザックリまとめる。

1883年[US107]清仏戦争勃発。フランス第三共和政は清に勝利して1885年[US109]天津条約を締結、清はベトナム(=阮朝)に対する宗主権を放棄した。

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清仏戦争(1883年[US107]8月20日〜)の勝利により締結した天津条約(1885年[US109]6月9日)によって、フランス第三共和政は、ベトナム阮朝(トンキン、アンナン、コーチシナ東部3省)保護国化を名実共に完了した。

イギリスとフランス第二帝政に敗れた清は、トルキスタン沿海州においてロシアに領土を奪われ続ける。 一方、インドチャイナにおいては、フランスによる藩属国阮朝(グェン朝、越南)すなわちベトナムの奪取が続いていた。

この清仏戦争に敗れたため清は宗主権を放棄せざるを得ず、これによってトンキン戦争によって事実上完了していたフランス第三共和政によるベトナム保護国化が形式的にも完了することとなった。

Synmeが思うに、フランス第三共和政によるフランス領インドシナ形成はこれによって次のステージに移行しただろう。もちろん、清の権威も大いに失墜したが、清に対する欧州列強の領土侵略を次のステージに導くのは日本であった。後に学ぶ。

 

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1858年[US082]Napoléon IIIはスペインと共同して艦隊を派遣し阮朝(グェン朝、越南)に侵攻した。1862年[US086]阮朝に勝利しサイゴン条約を締結、フランス第二帝政は、コーチシナ東部3省(ビエンホア省、ジャーディン省、ディントゥアン省)及びプロコンドール島(ニコンソン島)を獲得した。

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1882年[US106]フランス第三共和政阮朝(グェン朝、越南)に侵攻した(トンキン戦争)。1883年[US107]に第1次フエ条約、1884年[US108]第2次フエ条約を締結して、コーチシナ植民地を拡大し、トンキン地方を拡大・保護領とし、アンナンの領土を認めて阮朝保護国とした。

 

文責:鵄士縦七