Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの開国26:1862ロンドン覚書、パリ覚書

ニッポンの開国というかニッポンの国際外交への復帰の過程をいっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編で学ぶ。今回はロンドン覚書とパリ覚書。最初に事実だけ。

1862年[US086]江戸幕府はイギリスと交渉してロンドン覚書を締結、修好通商条約で定めた開港・開市を延期した。次いで、パリ覚書でその他の国とも同様の合意をした。 

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1862年[US086]6月6日江戸幕府はイギリスとロンドン覚書を締結して開市・開港を延期した。この後イギリスの働きかけもあって、同年10月2日他国ともパリ覚書を締結した。

しかし、代償として関税の低減化などを認める必要があった。ロンドン覚書の詳細な内容はロンドン覚書 - Wikipediaを参照して下さい。

 

ニッポンを開国させたのも修好通商条約を強引に締結したのもアメリカだったのに、ここへ来てイギリスの存在感が増している。

この頃のアメリカは南北戦争1861年[US085]4月12日〜1865年[US089]4月9日)にかかり切りで、明治維新までの数年間ニッポンでの存在感は薄れざるを得なかった。

欧州でもクリミア戦争(ロシア・トルコ戦争、1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)が行われて数年しか経っておらず、ロシアはここでバルカン半島南下の野望が一時挫かれたため極東に目が向いているが、清からウラジオストクを手に入れて一旦満足しつつ、極東でもイギリス艦隊を警戒している状況であった。フランス第二帝政は、クリミア戦争でようやく国際的な発言権を取り戻し、インドシナ出兵(1858年[US082]8月31日〜1862年[US086]6月5日)で仏領インドシナの端緒についたばかりの状況であった。

イギリスはと言うと、クリミア戦争に勝利してロシアの南下を阻み、インド大反乱セポイの乱、1857年[US081]5月10日〜1859年[US083])に勝利してイギリス領インド帝国を成立させ、清に対してもアヘン戦争とアロー戦争に連勝。米露仏に対して余裕があった訳である。

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1861年[US085]南北戦争勃発(〜1865年[US089])。4年を超える内戦で約50万人の戦死者を出しながらもアメリカ合衆国(USA)がアメリカ連合国(CSA)に勝利して、国家の統一を保った。 

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1853年[US077]フランスとイギリスの支援を取り付けたオスマン帝国がロシアに宣戦布告して、クリミア戦争が勃発した。ロシアはフランス第二帝政オスマン帝国、イギリス及びサルディーニャの同盟軍に敗北。1856年[US080]にパリ条約が締結され、1840年ロンドン条約の内容が再確認された。 

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1858年[US082]Napoléon IIIはスペインと共同して艦隊を派遣し阮朝(グェン朝、越南)に侵攻した。1862年[US086]阮朝に勝利しサイゴン条約を締結、フランス第二帝政は、コーチシナ東部3省(ビエンホア省、ジャーディン省、ディントゥアン省)及びプロコンドール島(ニコンソン島)を獲得した。 

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1858年[US082]インド大反乱セポイの乱)を鎮圧したイギリスは、ムガル帝国を消滅させてイギリス領インド帝国を成立させ、イギリス東インド会社を解散させて直接統治を始めた。

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文責:鵄士縦七