ニッポンの地政学04:1871−1873岩倉使節団の派遣
ニッポンの地政学を学ぶ。第1期グレートゲーム(The Great Game)終結までを学ぶために、国際社会に復帰したニッポンの地政学を学ぶ必要があるためだ。今回は岩倉使節団の派遣を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。
1871年[US095]から1873年まで、岩倉使節団は計13ヶ国の欧米諸国を訪問した。しかし、外交上では修好条約の改正交渉で成果は得られず、内政上は帰国直後に明治六年政変を招く。
1871年[US095]12月23日から1873年[US097]9月13日まで、岩倉使節団は太平洋を渡って、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスと計13ヶ国の欧米諸国を訪問した。帰路はスエズ運河を通って、セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海などの植民地を訪問した。アメリカには8ヶ月、イギリスには4ヶ月、フランスには2ヶ月滞在したようだ。
明治ニッポン政府は、新政府成立直後から、江戸幕府が締結した各国との修好条約の改正交渉を続けていた。1872年[US096]7月1日に改訂の時期を控えていて岩倉使節団は改正交渉の使命も帯びていたが、近代法制の不整備等を理由に交渉は不成功に終わった様だ。
ちなみに、総勢107名の大使節団だったが、主要メンバーは、岩倉具視、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳等である。
ところで、当時の列強各国の状況を見てみると、1870年代というのは列強による侵略の蓋然性は比較的低い時期であったと言える。これを読みきって、大使節団を欧米に派遣したのだとしたら凄いとSynmeは思う。違うんじゃないかって気がするけれど... まあ、この前代未聞の首脳外遊が外交上の問題とならなかったのはラッキーだったと言うべきだとSynmeは思う。
- イギリスは、イギリス領インド帝国も成立して10年ほどが経過し、清との交易も順調。余裕がある状態だった。インド、チャイナという2大市場を押さえていることで、特にニッポンに対する経済的・領土的野心はない状態だったと言える。
- ロシアは、クリミア戦争から立直り国力が充実し始めている段階だった。アジアにおいても不凍港を手に入れており、イギリスの極東進出に対抗するというフレームワークの中でニッポンとの関係を考えていたと言える。つまりニッポンとは友好な関係を維持して、極東でイギリス海軍と衝突した場合の便宜を図ってもらいたいということだ。一方で、ニッポンと国境画定を進める必要性はあった。
- フランス は、普仏戦争に敗北して余裕がない状態だった。
- アメリカは、南北戦争も終わり、アラスカをロシアから購入し、大陸横断鉄道も完成していたが、まだ米西戦争勃発・勝利まで30年弱あり、太平洋に対する興味がそこまで高まっていたとは言えない状況だった。
- プロイセンは、普仏戦争に勝利し、ドイツ帝国統一を成し遂げたばかりで、国力に余裕はなく、戦争を避けるビスマルク外交を展開している時期だった。
しかし、内憂外患という言葉があるとおり、外交も大事だけれど内政もあるのだ。この後の明治六年政変(1873年[US097]10月23日)まで至る過程を考えると、こんなに長期間海外に行っていて良かったんだっけ?と言いたくなるのは、Synmeだけか…
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1870年[US094]Napoléon IIIはプロイセンに宣戦布告して普仏戦争が勃発。Napoléon IIIは捕虜となりフランス第二帝政は崩壊、フランス第三共和政はプロイセンに破れ1871年[US095]フランクフルト講和条約を締結し、アルザス及びロレーヌ北部を失い、賠償金を支払うこととなった。
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Bismarckはエムス電報事件を図ってNapoléon IIIに宣戦布告させ、1870年[US094]普仏戦争が勃発。プロイセンは、北ドイツ連邦諸邦に加え、バイエルン王国、ヴェルデンベルク王国、バーデン大公国、ヘッセン大公国と共にフランスに勝利した。1871年[US095]フランクフルト講和条約を締結し、アルザス及びロレーヌ北部を獲得した。
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1871年[US095]ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ帝国の成立が宣言された。
文責:鵄士縦七