Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学05:1870−1873征韓論/遣韓中止の決定

ニッポンの地政学を学ぶ。第1期グレートゲーム(The Great Game)終結までを学ぶために、国際社会に復帰したニッポンの地政学を学ぶ必要があるためだ。今回は征韓論および遣韓中止の決定を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。

1873年[US097]西郷を全権大使として李氏朝鮮に派遣することが閣議決定されるが、ストレスで倒れた三条実美の代理として太政大臣となった岩倉具視が派遣決定と併せて上奏した派遣延期を明治天皇が容れ、西郷の派遣は無期延期となった。結果、西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣が参議を辞職した。 

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岩倉具視木戸孝允桂小五郎)、大久保利通伊藤博文山口尚芳岩倉使節団1871年[US095]12月23日〜1873年[US097]9月13日)として欧米諸国を歴訪している間、ニッポン国内は留守政府が主導していた。

留守政府とは、太政大臣三条実美西郷隆盛井上馨大隈重信板垣退助江藤新平大木喬任らで結成された組織で、留守を守ると同時に岩倉使節団出発前に断行された廃藩置県1871年[US095]8月29日)の後始末を行うことを主目的としていた様だ。

征韓論とは板垣退助桐野利秋大隈重信大木喬任らによって主張された、即時に李氏朝鮮に対して出兵しようとする主張であった。背景としては、明治政府樹立以来ずっと李氏朝鮮が明治ニッポンとの国交樹立を拒み続けていたことが挙げられる。

これに対し、西郷隆盛は派兵に反対し自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎江藤新平副島種臣らも賛同したこの主張は遣韓論とも言うべきものだった。1873年[US097]8月17日留守政府の閣議李氏朝鮮へ西郷を全権大使として派遣することが決定された。

遣韓論を上奏された明治天皇が却下したことにより10月14日〜15日に帰国した岩倉使節団のメンバーも含めた閣議が再度開かれた。この閣議に参加した閣僚のうち、西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣が賛成し、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視大久保利通大隈重信大木喬任が反対して、採決は5対5の同数となったが、西郷が辞任すると言うに至り、議長だった太政大臣三条実美李氏朝鮮へ西郷を全権大使として即時派遣することを決定した。

反対した右大臣岩倉具視大久保利通大隈重信大木喬任が辞意を表明したが、翌々日の10月17日に三条実美が意識不明に陥り、岩倉具視が10月20日太政大臣代理に就任した。

太政大臣代理岩倉具視は、10月23日に上記閣議三条実美により決定された派遣決定と、自身の意見である派遣延期の両論を上奏した。明治天皇岩倉具視の派遣延期の意見を容れて、李氏朝鮮へ西郷を全権大使として派遣する案は無期延期となった。

同日に西郷隆盛、翌日に板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣が辞意を表明し受理されて下野した。 

「なにをやってんだか」としかSynmeは思わない。明治ニッポンが成立してまだ5年程しか経たない中で、この分裂。しかも原因は李氏朝鮮との国交樹立だ。おかし過ぎる。プライオリティも何もあったものじゃない。

一番の過ちは、これを理由に政府が分裂したことだ。一旦、棚上げすれば良いだけだったのに。閣議で採決が同数となった段階で、上奏する手前で止めれば良かったのに、とSynmeは思う。

 

さて、明治ニッポンの外交戦略上のポイントは、①明治ニッポン成立後ずっと李氏朝鮮との国交樹立と言うプライオリティの低いテーマに時間をかけすぎた挙げ句、②重要な主要閣僚を5人も下野させ、③この後、無期延期の理由として挙げられたロシアとの樺太問題を慌てて解決する事態を招き、④挙げ句の果てには、台湾出兵の原因ともなった、といった諸点である。そして、なにより外交戦略のなさである。

参議諸氏に求められていたのは、李氏朝鮮との国交問題、ロシアとの樺太問題、清との関係、欧米列強との不平等条約改正問題など山積する諸問題のプライオリティを冷静に議論し、閣議で順次対策を決定していくことだったのではないか。

 

文責:鵄士縦七