Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

ニッポンの地政学28:1898.4.25西・ローゼン協定

チャイナ分割(瓜分)及びロシアの関連で、李氏朝鮮を巡るニッポンの地政学を学ぶ。今回は西・ローゼン協定。最初に、クールにザックリまとめる。

1898年[US122]4月25日ニッポンとロシアは西・ローゼン協定を結び、大韓帝国をニッポンの勢力範囲とし、満州をロシアの勢力範囲とすることを相互に認め合った。

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チャイナ本土では福建省の不割譲を勝ち得るに留まったニッポンだったが、同年同月25日(1898年[US122]4月25日)にロシアとの間で西・ローゼン協定を締結し、大韓帝国についてニッポンの勢力範囲となることを認めさせることに成功した。

西・ローゼン協定(1898年[US122]4月25日)の具体的な内容としては、大韓帝国に対する内政干渉の差し控え、軍事・財政顧問を送る場合の相互事前承認、ロシアがニッポンの大韓帝国に対する投資を妨害しないこと等であった。

大前提として、Synmeは3つのことを確認しておきたい。第一に、ニッポンが満州についてロシアの勢力範囲となることを認めた代わりに、大韓帝国がニッポンの勢力範囲となることを認めさせた「だけ」であること。第二に、旅順・大連をチャイナから租借することに成功したロシアは大韓帝国に対する興味を失っており、関与を低下させる意図であったこと。第三に、露館播遷があった経緯から、ロシアもニッポンも大韓帝国を国家として扱っていないこと、である。

Synmeが思うに、ロシアとしては「安い買い物」だっただろう。なにせ、元々遼東半島を割譲したのは日清戦争に勝利したニッポンだったはずであって、興味を失った大韓帝国と引き換えにニッポンに満州を自国の勢力範囲とする(事実上、その沿岸部である遼東半島もロシアの勢力範囲となる)ことを認めさせたのだから。

とにかく、この西・ローゼン協定によって、日清戦争に勝利したもののロシアの傀儡政権が誕生してしまっていた状況から、ニッポンはもう一度朝鮮半島に進出する足掛かりを得たことになる。

ニッポンとしては、チャイナ分割(瓜分)によるロシアの旅順・大連租借から「棚ぼた」式に得たチャンスであったというべきであろう。ただし、大韓帝国が排露傾向を強める原因を作ったのはイギリスが仁川に東洋艦隊を派遣したことであったことは覚えておこう。この時期の地政学は、あくまでThe Great Gameの一部を構成しており、ニッポンはイギリス側に立っていたということだ。

 

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旅順・大連を租借したロシアは李氏朝鮮への関与を低下させる。1898年[US122]3月23日ロシアは李氏朝鮮に派遣していた軍事・民事アドバイザを全て撤退させた。

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1898年[US122]3月15日(または27日)ロシアは旅順と大連を25年間租借し、南満洲鉄道の敷設権を獲得した。 

 

文責:鵄士縦七