Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学37:1898.9.18ファショダ事件

フランスの地政学を学ぶ。しばらくの間、アフリカ侵略と英仏露三国協商にフォーカスする。 今回はようやくファショダ事件。最初に、クールにザックリまとめる。 

1898年[US122]9月18日スーダンのファショダ村でフランス軍とイギリス軍が遭遇。フランスが譲歩し撤退したため、以降の両国の関係は良好になった。

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まず、イギリスのアフリカ縦断政策を簡単に復習しておく。具体的には、イギリスの「南下」の状況を復習する。

  • 1875年[US099] イギリスがスエズ運河会社の筆頭株主になった
  • 1882年[US106] イギリスはウラービー革命の鎮圧に乗じてエジプトを保護国化
  • 1881年[US105]Muḥammad Aḥmadの反乱が起こりスーダンを支配
  • 1898年[US122]9月2日 オムドゥルマンの戦い(Battle of Omdurman)において、イギリス・エジプト軍がマフディー軍を撃破
  • 1898年[US122]9月18日 ファショダ事件(フランス軍とイギリス軍の遭遇) 
  • 1899年[US123]〜1956年[US180] イギリスとエジプトがスーダンを共同統治することとなった(イギリス・エジプト領スーダン)

つまり、スエズ運河を獲得し、エジプトを保護国化したイギリスがエジプト経済を立て直して、 軍備も増強。エジプト支配下にあったスーダンの反乱を鎮圧して、スーダンをエジプトと共同統治することになった。ということである。

そして、フランスのアフリカ横断政策は今ちょうど学んでいるところである。

Synmeが思うに、基本的に「鉄道を通す」というアイディアを前提としてイギリスもフランスも植民地獲得を継続しているので、スーダンが両国の交差点になるのは必然だった。

ファショダ事件については、フランスが譲歩して撤退し、以降にイギリスとフランスの関係が良好になって行くことがポイントである。これはイギリスの地政学として学んだときの通り。

そこで、今回はドレフュス事件を簡単に学んでおく。

1894年[US118]ユダヤ人大尉Alfred Dreyfus(フランス陸軍参謀本部勤務)にドイツのスパイ容疑が掛けられたものの濡れ衣であった(真犯人はハンガリー生まれの少佐だった)ところ、逮捕・軍法会議で有罪判決とした軍部がもみ消しを図った。

結局、軍部のもみ消しが露見してAlfred Dreyfusは無罪判決を勝ち獲ったが、もみ消しに際して軍事機密などと偽って情報公開に応じなかった事などから軍部の権威が失墜した。

ちなみに、このドレフュス事件を契機として、シオニズムが起こり、イスラエル建国(1948年[US172]5月14日)へとつながっていったそうだ。ドレフュス事件から実に50年超掛かっているわけである。

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文責:鵄士縦七