Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

イギリスの地政学09:1881-1899マフディー戦争

さて、アフリカ分割に関連するイギリスの地政学を学んで行く。今回はマフディー戦争。最初に、クールにザックリまとめる。

1881年[US105]自らマフディーを名乗ったMuḥammad Aḥmadの反乱が起こりスーダンを支配した(〜1898年[US122])。しかし、エジプト経済再建を経てエジプト・イギリス軍はマフディー軍を掃討し、1899年[US123]以降スーダンはエジプト・イギリスの共同統治下に置かれた。

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エジプトを保護国化したイギリス、アフリカ北部の植民地化政策として次はスーダンが問題となった。

そもそもスーダンは1819年[US043]にムハンマド・アリー朝エジプトの始祖Muhammad Ali Pashaに征服されて以降エジプトに支配されていた。

エジプトで起こったウラービー革命と機を一にして、Muḥammad Aḥmadはエジプトに対する反乱を起こし、 1881年[US105]6月19日みずからを「マフディー」(「約束された救世主」)であると宣言した。

マフディー軍はエジプト軍やイギリス軍に勝利し、1885年[US109]1月25日チャールズ・ゴードンに率いられたエジプト・イギリス軍をハルツームで陥落させると、マフディー国家(Mahdist Sudan)を樹立して1898年[US122]までの13年間スーダンを支配した。

しかし、エジプトはスーダンに対する主権を放棄しておらず、イギリスもこれを支持していた。そして、イギリスの保護国となったエジプトは経済を再建し、エジプト軍もイギリス軍によって訓練されていた。

1898年[US122]9月2日にオムドゥルマンの戦い(Battle of Omdurman)でホレイショ・ハーバート・キッチナーが率いるイギリス・エジプト軍がマフディー軍を撃破し、1899年[US123]からイギリスとエジプトが共同統治することとなった(イギリス・エジプト領スーダン、1899年[US123]〜1956年[US180])。

 

synme.hatenablog.com1875年[US099]エジプトからスエズ運河会社株式の44%を400万ポンドで取得し、イギリスはスエズ運河会社の筆頭株主になった。

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1880年[US104]南アフリカにおいてイギリスがトランスヴァール共和国を併合しようとするも敗北。1881年[US105]プレトリア協定を締結し、イギリスは改めてトランスヴァール共和国の独立を承認せざるを得なかった。 

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1882年[US106]イギリスはウラービー革命の鎮圧に乗じてエジプトを保護国化した。 

 

文責:鵄士縦七