フランスの地政学39:1905.3.31第1次モロッコ事件
フランスの地政学を学ぶ。しばらくの間、アフリカ侵略と英仏露三国協商にフォーカスする。 今回は第1次モロッコ事件。最初に、クールにザックリまとめる。
1905年[US129]3月31日ドイツ第二帝国皇帝Wilhelm IIがモロッコのタンジールを突如訪問してフランス第三共和政によるモロッコ支配を阻止しようとした(第1次モロッコ事件)。
長かった… モロッコ - Wikipediaにおけるフランス第三共和政とドイツ第二帝国の対立を書くために、フランスのアフリカにおける地政学をここのところずっと学んでいるSynmeです。
英仏協商(1904年[US128]4月8日)によってイギリスがモロッコにおけるフランス第三共和政の優越を認めた。
1905年[US129]3月31日これに不満なドイツ第二帝国皇帝Wilhelm II(在位:1888年[US112]6月15日〜1918年[US142]11月9日)がモロッコの港湾都市タンジール(タンジェ - Wikipedia)を突如訪問してフランス第三共和政によるモロッコ支配を阻止しようとした(第1次モロッコ事件)。
皇帝Wilhelm IIの要求は、モロッコの植民地化について国際会議を催すことであった。
フランス第三共和政は、ロシアの軍事的援助を得られる見込みがなかったことから国際会議の開催を受諾した様だ。
スペインのアルヘシラスで国際会議(Algeciras Conference - Wikipedia、1906年1月16日〜4月7日)が開催され、欧米13カ国が参加し、大半の参加国が「フランスを支持」した。さすがWilhelm II、本当にドイツに皇帝Wilhelm IIがいなかったら歴史は大きく異なっていたかもしれない、とSynmeは思う。
重要なポイントは、第1次モロッコ事件によってフランス第三共和政とドイツ第二帝政の対立が顕在化したことである。そして、モロッコの問題はまだ続く。
Synmeが思うに、ロシアの支援が得られなかったため、ドイツと戦争を始める選択肢を採らず国際会議の開催を受諾したフランスの外交を評価するべきである。感情的な外交をしてはいけないと言う一例と言えるかもしれない。
文責:鵄士縦七