イギリスの地政学17:1914.7.3マクマホンライン
チベットの歴史を学ぶ。辛亥革命の影響としては、ニッポン、モンゴル、チベット、そしてGreat Gameの経緯からロシア及びイギリスが関わっている。今回はマクマホンラインを学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。
シムラ条約(1914年[US138]7月3日)の傍らで、イギリスとチベットの二者協議が行われイギリス領インドとチベットの国境がマクマホンラインに定められた。
不勉強なSynmeは名前を聞いたことがあった程度だったけれど、チベットの関連でマクマホンライン(McMahon Line - Wikipedia)を学ぶ。
前回学んだ通り、イギリスとチベットはシムラ条約(1914年[US138]7月3日)を締結し、イギリスは、チベットを中華民国の主権の下で実質的に独立した統治体として認め、中華民国は署名を拒否した。
上記のシムラ条約は中華民国は署名しなかったものの、あくまでイギリス、中華民国、チベットの三者協議であった。
一方、イギリスはチベットとだけ別の協議も並行して行っていた。つまり、イギリス領インド帝国(1858年[US082]8月2日成立、1877年[US101]1月1日Victoria女王初代インド皇帝(女帝)戴冠)とチベットの国境について話し合っていた。
真のチベット独立の支持ではないもののチャイナ主権下での実質的なチベット独立を支持する代わりにイギリス側交渉担当のHenry McMahonが提案して、イギリスとチベットの間で合意に至ったものである。
マクマホンラインはイギリス領インド帝国の領土を北に拡大するものであり、現在のアルナーチャル・プラデーシュ州 - Wikipediaの範囲に相当する領土がチベットからイギリスに移譲された。
このマクマホンラインは、明白に英露協商(1907年[US131]8月31日)に反している。イギリスとロシアはチベット内政に対する不干渉を約したのだから、国境変更はできない道理だ。実際、イギリス領インド帝国もすぐにはこの国境変更を承認しなかった。
Synmeが重要だと思う点は以下の2点。外交は難しい、そして下手な外交は国益を容易に損なう。下手な外交をするよりはダラダラ、グズグズしておいた方がマシなこともある…
- チベットとしては、チャイナからの真の実力も勝ち獲れず、領土も失うと虻蜂取らずであった。当たり前の道理だけれど、自民族あるいは自国の利益を代表するのは自国の政府だけである。
- イギリスは英露協商違反を犯しながらもロシアとの関係を維持し、中華民国は認めないと言っても放っておき、マクマホンラインは結局現在の中華人民共和国(People's Republic of China, PRC)とインドの国境となっている。もちろん紛争地域になっているのは最近のニュースでも報じられている。
文責:鵄士縦七