チベットの歴史02:1914.7.3シムラ条約の締結
チベットの歴史を学ぶ。辛亥革命の影響としては、ニッポン、モンゴル、チベット、そしてGreat Gameの経緯からロシア及びイギリスが関わっている。今回はシムラ条約の締結を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。
1914年[US138]7月3日イギリスとチベットはシムラ条約を締結し、チベットを中華民国の主権の下で実質的に独立した統治体として認めた。
チベット・モンゴル相互承認条約(1913年[US137]1月11日)によりチベットとモンゴルがそれぞれの独立自治権と統治権を主張すると、イギリスとロシアは中華民国における自国の権益への影響を恐れて、中華民国の面子を保つ「落とし所」を求めた。
言うまでもないが、欧米列強にとって非欧米の一民族の独立・自治は自国の植民地の保持に劣後する外交要素でしかないと言うことだ。
すなわち「独立国家」として国際的な承認を与えるのではなく、あくまで中華民国を協議に加えた上で、チャイナ主権下での実質的自治権を認めると言う手法である。オスマン帝国においても使用されている手法である。具体的には、チベットについてはイギリスが、モンゴルについてはロシアが担当する。
1914年[US138]7月3日イギリスとチベットはシムラ条約を締結し、チベットを中華民国の主権の下で実質的に独立した統治体として認めた。ただし、中華民国は署名を拒否した。
次回の学習につながるが、 英露協商(1907年[US131]8月31日)においては、「チベットについては、ロシアもイギリスもその内政に干渉しない」と定められていた。
このシムラ条約についてはイギリスはこの原則を踏まえている様に見える。問題は次回学ぶマクマホンラインである。
文責:鵄士縦七