Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学48

さて、だいぶ間延びしてしまっているけれどGreat Game終焉に至るフランスの地政学を簡単に振り返っている。今回で復習終わりです。

今回は英仏協商から英露協商までを復習する。三国協商(「仏英露」、事実上「+日」)という外交的成果を挙げた段階で、WWIにおけるフランス第三共和政のドイツ第二帝国に対する勝利は決まっていたのかもしれない。

ともかく、英仏協商の締結(1904年[US128]4月8日)周辺の事情をニッポンを含めて復習することと、英露協商の締結(1907年[US131]8月31日)までを学び直す。

並行して、モロッコ事件の推移を学び、フェス条約(1912年[US136]3月30日)までを復習する。

f:id:synme:20190505233559j:plain

まず、極東でフランス第三共和政にとってサプライズが起こる。イギリスとニッポンが同盟を結び(第一次日英同盟(1902年[US126]1月30日))、ニッポンがロシアと戦争を始めた(日露戦争(1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日))のだ。

フランス第三共和政は露仏同盟(1891年[US115])にも関わらず、開戦して2ヶ月で英仏協商を結んだ。ニッポンのロシアに対する脅威がフランス第三共和政にとってサプライズだったとすると、日露戦争=イギリスとロシアの対立表面化という絶好の機会にイギリスと同盟を結ぶセンスが素晴らしい。一方で、サプライズでなかったとするとフランス第三共和政の情報収集能力が素晴らしい。

とはいえ、露仏同盟と英仏協商を両立させることが、日露戦争勃発によりフランスの外交を「股裂(またさき)」状態にする恐れがあったのも事実であろう。

しかし、ニッポンの勝利に終わるキッカケともなったロシア第1革命(1905年[US129]1月22日〜1907年[US131]6月16日)でロシア帝国が動揺しているのにつけ込んで、ロシア第1革命鎮圧直前に日仏協約を締結(1907年[US131]6月10日)し、ロシア第1革命鎮圧直後に敵国同士だったニッポンとロシアを結び付けている(第1次日露協約の締結(1907年[US131]7月30日)。

フランス第三共和政は、日露戦争で賠償金を取れなかったニッポンに対して、フランス第三共和政の主導でイギリスと共にニッポンの国債の引受をしたのだ。

結果的に、「股裂(またさき)」どころか、フランス第三共和政は英露協商を成立させたのだ(1907年[US131]8月31日)。素晴らしい外交力であると、Synmeは思う。

 

さて、一方のアフリカでは何が起こっていたか?

まず、英仏協商(1904年[US128]4月8日)の果実であるモロッコでのフランス第三共和政の権益拡大に対して、1905年[US129]3月31日ドイツ第二帝国皇帝Wilhelm IIがモロッコのタンジールを突如訪問してフランス第三共和政によるモロッコ支配を阻止しようとした(第1次モロッコ事件)。 しかし、スペインのアルヘシラスで国際会議(Algeciras Conference - Wikipedia、1906年1月16日〜4月7日)が開催され、欧米13カ国が参加し、大半の参加国が「フランスを支持」した。

なおも諦めきれないWilhelm IIは、1911年[US135]7月1日砲艦パンターをモロッコのアガディールに突如派遣し、内乱鎮圧のために派兵されていたフランス軍を威嚇した(第2次モロッコ事件)。 しかし、フランス第三共和政は1912年[US136]3月30日フェス条約を締結し、モロッコの大部分を保護領とした。別途スペインとも合意し、リーフ地方をスペインの保護領とした。

ドイツ第二帝国は、モロッコの「代わりに」ノイカメルーンを獲得したものの、自国のモロッコに対する権益主張を国際的に認めさせることに失敗し、モロッコをフランス第三共和政の保護領とさせ、みすみすスペインとフランスの外交的結びつきを強化してしまった。さすがWilhelm II、明らかな外交的敗北である。

なお、フランス第三共和政は、1910年[US134]1月15日にはフランス領赤道アフリカを成立させている。

 

文責:鵄士縦七