Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

フランスの地政学47

つづいて露仏同盟(1891年[US115])から英仏協商(Entente Cordiale、1904年[US128]4月8日)までを復習する。

フランス第三共和政は、外交努力によって、露仏同盟を「ロシアにとって価値ある同盟」と証明を続ける一方で、アジアでもアフリカでもイギリスに妥協・譲歩することで、英仏協商に漕ぎ着ける。

アジアでもアフリカでも植民地拡大は上手く行っているのに、慢心せず、我慢の外交を展開したフランス第三共和政は見習うべきである。

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まずチャイナから見て行こう。この時期のフランス第三共和政のチャイナ外交の要点は「露仏同盟に報いる」ことであった。

ロシアは、1891年[US115]フランス資本の資金援助を受けながらシベリア鉄道の建設を開始、1901年[US125]にバイカル湖区間を除いて一応の完成を見た。全線開通は日露戦争1904年[US128]2月8日〜1905年[US129]9月5日)中の1904年[US128]9月だった。

そして、フランスを含む欧米列強にとって衝撃的だったニッポンの日清戦争(1894年[US118]7月25日〜1895年[US119]4月17日)での勝利に対して、フランスはロシアの肩を持つため、ロシア及びドイツと共に馬関条約で割譲された遼東半島の清への返還をニッポンに要求した(三国干渉、1895年[US119]4月23日)。

ロシアは、間接的ながら露仏同盟のおかげで、チャイナ侵略の列強との競争で優位に立つことができたわけである。

一方で、「ニッポンのおかげ」で加速したチャイナ分割でもフランス第三共和政はしっかり権益を拡大している。ドイツ、ロシア、イギリスの後追いの形で1898年[US122]4月10日に広州湾を占領し、5月27日に広州湾(Fort-Bayard(バヤール要塞), Kwangchow Wan)を99年間租借する条約を締結した。

 

次に、ひきつづき順調なインドチャイナを見る。

1893年[US117]フランス第三共和政はタイに勝利(仏泰戦争してラオスの宗主権を放棄させ、ラオスを保護国化した。

その結果、フランス領インドシナ連邦は1886年[US110]にはビルマ全域を獲得していたイギリスとメコン川を境に隣り合うことになった。しかし、1896年[US120]1月15日タイの独立を維持して同地を英仏間の緩衝地帯とすることをイギリスと合意・発表した(シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言)。

こうして、フランス領インドシナ連邦の成立(1887年[US111]10月17日)から12年、1899年[US123]4月15日にフランス第三共和政は大統領令でラオスを編入し、インドシナ 連邦を完成させた。

 

つづいてアフリカ侵略も見て行く。こちらはイギリスのアフリカ縦断政策とフランスのアフリカ横断政策の衝突が焦点となった。

まず大西洋岸では、フランス領西アフリカが成立(1895年[US119]10月27日)した。

そして、1896年[US120]5月20日にフランス領ソマリ(現在のジブチ)を植民地化し、同年8月6日にマダガスカルを併合したフランス第三共和政は、1898年[US122]9月18日スーダンのファショダ村で南下してきたイギリスと衝突の危機を迎えた。しかし、フランスが譲歩し撤退した(ファショダ事件)ため、以降の両国の関係は良好になった。

Synmeの想像も入るが、当時の列強は常に「鉄道建設」が念頭にあるので、縦断とか横断とかが植民地政策の肝になるわけである。結局アフリカに弾丸鉄道は建設されなかったけれども、このフランスの譲歩が小さくないものであること(アフリカ横断鉄道建設を断念することを意味する譲歩であったこと)を理解しておくことは重要である。

 

以上復習してきたように、イギリスに対しては譲歩という形で「恩を売り」、フランスは英仏協商(1904年[US128]4月8日) を締結。ロシアについでフランスとも同盟関係を築くことに成功したわけである。そして、英仏協商の締結にはニッポンが間接的に関係しているので、その辺りを次回に復習する。

 

文責:鵄士縦七