Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

チャイナ、モンゴル、チベットの歴史(辛亥革命〜第三革命)

最後に今回は、辛亥革命勃発から第三革命までのチャイナ、モンゴル、チベットの歴史を復習する。辛亥革命から第三革命までの間に第一次世界大戦の勃発(1914年[US138]7月28日)があるのだけれど、一旦チャイナ、モンゴルとチベットの復習に留める。

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辛亥革命(1911年[US135]10月10日〜1912年[US136]2月12日)によって大清帝国(1616年[bUS160]2月17日後金成立〜1636年[bUS140]5月15日清に改称〜1912年[US136]2月12日滅亡)が滅亡して、中華民国(Republic of China, “R.O.C.”) が成立した。

チャイナの共和革命は「画竜点睛を欠く」共和革命だったため暫く続くことになり、一方で、清に支配されていたモンゴルとチベットにも影響を与えて行くことになる。 

まずは、モンゴル民族。辛亥革命勃発から僅か2ヶ月あまりの1911年[US135]12月29日、外蒙古の諸王・諸侯は、ジェプツンダンバ・ホトクト8世を君主すなわちボグド・ハーンとして推戴し、清国からの独立を宣言した。

次に、チベット民族。1912年[US136]2月12日、辛亥革命で中華民国が誕生したもののチベットでの軍政を維持しようとした。しかし、1912年[US136]12月チベット軍は清国軍守備隊を追い払うことに成功した。

1913年[US137]1月11日モンゴルとチベットはそれぞれの独立自治権とボグド・ハーンによるモンゴル統治権およびガンデンポタンによるチベット統治権を相互に承認するチベット・モンゴル相互承認条約を締結した。チャイナから独立したいと言う点で共通の利益があった両民族が協力して、国際的に承認して貰う効果を狙ったわけである。

そして、チャイナの共和革命のつづき。同1913年[US137]7月12日中華民国(Republic of China, “R.O.C.”)で第二革命勃発。しかし、北京政府によって1ヶ月ほどで鎮圧された。第二革命(1913年[US137]7月〜8月)を鎮圧し、10月10日袁世凱(Yuzan Shikai)が正式に大総統に就任した。続けて、袁世凱は11月4日に解散命令を出して国民党を解散させ、国会自体も解散させた。これにより建て直しが必要となった孫文(Sun Yat-sen)は、1914年[US138]7月8日中華革命党を亡命先の東京で結成した。

ふたたびチベット民族。翌1914年[US138]7月3日イギリスとチベットはシムラ条約を締結し、チベットを中華民国の主権の下で実質的に独立した統治体として認めた。ただし、中華民国は署名を拒否した。シムラ条約の傍らで、イギリスとチベットの二者協議が行われイギリス領インドとチベットの国境がマクマホンライン(McMahon Line - Wikipedia)に定められた。マクマホンラインはイギリス領インド帝国の領土を北に拡大するものであり、現在のアルナーチャル・プラデーシュ州 - Wikipediaの範囲に相当する領土がチベットからイギリスに移譲された。

ちなみに、この頃。サラエボ事件(1914年[US138]6月28日)を契機として、1914年[US138]7月28日のオーストリア=ハンガリー帝国のセルビアに対する宣戦布告によって、第一世界大戦が勃発している。

そしてモンゴル民族。1915年[US139]5月25日ロシアと中華民国とモンゴルはキャフタ条約(Treaty of Kyakhta (1915) - Wikipedia)を締結し、モンゴルを中華民国の主権の下で実質的に独立した統治体として認めた。 チベットとは異なり、中華民国もちゃんと署名した。三者間の合意である。辛亥革命を契機に民族独立に向かったモンゴルとチベットだが、この頃からそれぞれの進む道は少しずつ離れて行くことになる。

最後に、チャイナの共和革命。同1915年[US139]12月12日袁世凱(Yuzan Shikai)は中華帝国大皇帝に即位した、すなわち中華帝国が成立(1915年[US139]12月12日)したのである。しかし、皇帝即位は流石にやりすぎだった様で、第三革命(護国戦争、1915年[US139]12月25日〜1916年[US140]7月14日)によって中華帝国は崩壊(1916年[US140]3月22日)し、袁世凱も敗北してまもなく病没してしまう。

そして、この第三革命がチャイナの南北分裂の端緒となってしまうことになる。

 

文責:鵄士縦七