Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

オーストリアの歴史01:1867.5.29オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立

ドイツ連邦から外されたオーストリアの歴史を学ぶ。オーストリアの歴史と言ってもオーストリア=ハンガリー二重帝国(1867年[US091]6月8日〜1918年[US142]11月11日)の歴史を一部学ぶだけだけれど…

今回はオーストリア=ハンガリー二重帝国の成立。最初にクールにザックリまとめる。

1867年[US091] 5月29日ドイツ人はマジャール人と妥協しオーストリア=ハンガリー二重帝国を成立させた。軍事・財政・外交は皇帝の直轄とされたが、オーストリアはオーストリア帝冠領とハンガリー王冠領に分割され、それぞれドイツ人政府、マジャール人政府が統治することとなった。

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19世紀半ば過ぎのオーストリア帝国の外交・戦争は連戦連敗であった。

まず、参戦はしていないがクリミア戦争(ロシア・トルコ戦争、1853年[US077]3月28日〜1856年[US080]3月30日)で傍観したことによりロシアとの外交関係が悪化した。

次に、第2次イタリア独立戦争(1859年[US083]4月29日〜7月11日)でサルデーニャ王国・フランス第二帝政連合軍に敗北して、サルデーニャにロンバルディアを割譲した。

第三に、普墺戦争(1866年[US090]6月7日〜8月23日)でプロイセン王国・サルデーニャ王国連合軍に敗北した。プロイセン王国に対する領土の割譲はなかったが、ガスタイン協定(1865年[US089]8月14日)でオーストリアが統治することとしたホルシュタイン公国に加えて、ハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト自由市をプロイセン王国が併合することを認めざるを得なかった。なにより、ドイツ連邦から除外されてしまった。

そして、サルデーニャ王国に対しては、ヴェネト地方を割譲した。

 

これら外交・戦争の失敗により、少数派支配階級のドイツ人は多民族国家オーストリア帝国を従来通り掌握し続けることができなくなってしまった。民族自決の動きと帝国の衰退が二重苦となったわけである。

1867年[US091] 5月29日オーストリアを統治するドイツ人はマジャール人と妥協(アウスグライヒ(Ausgleich))して帝国を維持する選択をした(Austro-Hungarian Compromise of 1867 - Wikipedia)。ここにオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した。

具体的には、オーストリアをオーストリア帝冠領(ツィスライタニエンまたはクローンラント)とハンガリー王冠領(トランスライタニエン)に分割し、帝冠領はひきつづきドイツ人政府が統治し、王冠領はマジャール人政府が統治することとした。ただし、オーストリア皇帝はハンガリー国王を兼ね(同君連合)、軍事・財政・外交面は皇帝が直轄することとした。

こうして同1867年[US091] 6月8日オーストリア皇帝Franz Joseph Iはハンガリー国王を戴冠した。

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文責:鵄士縦七