Synmeの地政学がくしゅう帳

地政学でクールにザックリ日本の外交・軍事を学ぶ

【再掲】ドイツの地政学06:1864.2.1−10.30第2次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争

【再掲にあたっての備忘録】鉄血宰相Otto von Bismarckの登場によりプロイセン王国によるドイツ統一が始まる。その過程で、オーストリア、Napoleon III率いるフランス第二帝政及びイタリア王国に少なからぬ影響を与えていく。

開幕はデンマークとの再戦、第2次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争。しかもオーストリアとの同盟は、この戦争における確実な勝利だけでなく、「ドイツ連邦の盟主」かつ「プロイセン主導によるドイツ統一の障害」たるオーストリアの内情視察を兼ねる将来の勝利の布石を兼ねる一石二鳥の戦略であった。

 

ドイツ帝国すなわちプロイセン王国の地政学、今回は第2次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争を学ぶ。

プロイセンは鉄血宰相Otto von Bismarckの導きによりこの戦争に勝利し、ドイツ統一へと歩み始める。最初にクールにザックリまとめる。

1864年[US088]第2次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発、Bismarckはオーストリアと同盟し、デンマークを孤立させて勝利した。デンマークはウィーン条約によりプロイセンとオーストリアにシュレースヴィヒ公国、ホルシュタイン公国及びザクセン=ラウエンブルク公国を割譲した。 

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遂にプロイセンの鉄血宰相Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen(首相在任期間1862年9月23日〜1872年12月21日、1873年11月9日〜1890年3月18日)の登場である。

1863年[US087]3月にデンマークは憲法を改正し9月に施行したが、これにはシュレースヴィヒのデンマークによる併合が含まれていた。Otto von Bismarckは、条約違反を主張し、オーストリアも誘ってデンマークに圧力をかけた。Bismarckには、同地のキール港を入手し、北海とバルチック海を結ぶ運河を構築する狙いがあった。

スウェーデン王カール15世はデンマークを完全に支持し、2万の兵の派遣を約束していたのである。しかしスウェーデンではすでに国王の手から政治的実権が離れつつあり、スウェーデン議会は軍の派遣を拒否した。

1864年[US088]1月31日に集結を完了したプロイセン・オーストリア連合軍は、2月1日の宣戦布告とともにキール運河とアイダー川を越えてシュレースヴィヒに侵攻して、開戦した。

第2次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1864年[US088]2月1〜10月30日)はウィーン条約により終結した。同条約は、デンマークとプロイセン、オーストリアの間で締結された。プロイセンは割譲を受けた3公国を併合しようと図り、オーストリアはプロイセンのみの利益にならぬようシュレースヴィヒ=ホルシュタインをアウグステンブルク家による独立国として支配権を握ろうと図り、対立した。

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Otto von Bismarckが鉄血宰相と呼ばれる理由となった 1862年[US086]9月30日プロイセン衆議院予算委員会での演説を引用する。鉄とは兵器であり、血とは兵隊である。事実、Bismarckはデンマーク、オーストリア、フランスを「活用」することで10年も掛からずにプロイセン国王Wilhelm Iをドイツ皇帝とすることに成功する。

全ドイツがプロイセンに期待するのは自由主義ではなく武力である。バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンは好きに自由主義をやっていればいい。これらの諸国にプロイセンと同じ役割を期待する者は誰もいないだろう。プロイセンはすでに何度か逃してしまったチャンスの到来に備えて力を蓄えておかねばならない。ウィーン条約後のプロイセンの国境は健全な国家運営に好都合とはいえない。現在の問題は演説や多数決 ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― によってではなく、鉄と血によってのみ解決される。

 

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文責:鵄士縦七