ドイツの地政学05:1848-1852第1次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争
ドイツ帝国すなわちプロイセン王国の地政学、今回は第1次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争を学ぶ。最初にクールにザックリまとめる。
1848年[US072]第1次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発、プロイセンはシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を支援して、デンマーク及びスウェーデン義勇軍と戦ったが敗北した。
フランスで起こった二月革命(1848年[US072]2月23日〜12月2日)に端を発した1848年革命(諸国民の春)により民族意識が高揚した。シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国はデンマーク王国の勢力下にあったが、住民の多くはドイツ系であり自治とドイツへの統一を求めていた(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題)。
デンマークが両国を併合しようとしたことにシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国が反発し、ドイツ連邦の支援を受けて仮政府を樹立。プロイセンの後ろ盾を得てデンマークからの分離を目指した。
スウェーデンは中立を掲げながら義勇軍を送り込んでデンマークを支援した。背景には、汎スカンディナヴィア主義の昂揚があった。
第1次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1848年[US072]3月24〜1852年[US076]5月8日)はロンドン条約で妥協により終結した。同条約は、スウェーデン、プロイセン、イギリス、ロシア、オーストリア、フランスの間で締結された。
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1848年革命とは、1848年[US072]から1849年[US073]にかけて起こったウィーン体制の崩壊を招いた革命。「諸国民の春」ともいう。
フランスでは二月革命(1848年[US072]2月23日〜12月2日)によってフランス第二共和政が成立。Napoléon III(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)は12月の選挙で大統領に選ばれた。
オーストリアでは三月革命によって宰相メッテルニヒや皇帝一家が亡命する事態となったが反革命派が巻き返した。ドイツ連邦は復活(オルミュッツ協定、1850年[US074]11月29日)、1851年[US075]12月31日には完全に旧体制に復帰した(新絶対主義)。
プロイセンでは第1次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を巡って、デンマークと戦い敗北した。
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文責:鵄士縦七