【再掲】フランスの地政学34:1896.8.6マダガスカルの併合
【再掲にあたっての備忘録】19世紀後半、「間接的」かつ「複合的」な状況変化により、マダガスカルのメリナ王国はフランス第三共和政による植民地化を免れられなかった。
メリナ王国を江戸幕府と置き換えれば、ニッポンでも起こり得た事態である。
まず、1869年[US093]11月17日スエズ運河が開通したことにより、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺で新興列強のドイツ第二帝国やイタリアの植民地獲得が活発になる。マダガスカルにとっては、1885年[US109]3月3日ドイツ第二帝国がドイツ領東アフリカを成立させたことが大きく影響した。
次いで、1888年[US112]4月18日イギリス東アフリカ会社を設立して、ケニアの植民地化に着手したイギリスは、1890年[US114]7月1日ドイツ第二帝国とヘルゴランド=ザンジバル条約を締結。イギリスはドイツ第二帝国にザンジバルに関するイギリスの権益を認めさせた。
その結果、同年(1890年[US114])ザンジバルにおける権益を承認させるために、イギリスはフランス第三共和政のマダガスカル島における権益を認めた。この背景には、イギリス領インド帝国への航路が「喜望峰回り」ではなくなったことによる、海洋国家イギリスにとってのマダガスカル島及びその港湾設備の重要性が低下したという事情がある。
繰り返しになるけれど、ケニア、タンガニーカ(タンザニア大陸部)、ザンジバル(タンザニア島嶼部)の植民地化という「間接的」な事態変化が、スエズ運開通すなわち世界的な海洋ルート変更という事態変化と「複合的」に絡み合ってマダガスカルはあっさりイギリスに見捨てられたということである。
フランスの地政学を学ぶ。しばらくの間、アフリカ侵略と英仏露三国協商にフォーカスする。 今回はマダガスカルの併合。最初に、クールにザックリまとめる。
1896年[US120]8月6日フランス第三共和政は、マダガスカルの併合を宣言し、メリナ王国は滅亡した。
マダガスカル - Wikipediaの場所がわからない人は少ないと思う。
Synmeは知らなかったので調べてみたところ、現在は共和政(マダガスカル共和国)で、首都はアンタナナリヴ、マダガスカル島は本州(島)の約2.6倍の大きさ(マダガスカル島は59.4万㎢、本州は23.0万㎢)、だそうだ。結構大きい…
さて、ニッポン人にとっては他人事とは思えないマダガスカル近代史を簡単にまとめる。併合に成功するフランス第三共和政はもちろん、イギリスとドイツも間接的に関わってくる。
- 17世紀前半、メリナ王国がマダガスカル中央高地に出現
- 18世紀初め、メリナ王国分裂
- 1793年[US017]アンヂアナンプイニメリナ(在位1787年[US011]〜1810年[US034])がメリナ王国を再統一
- 19世紀初め、ラダマ1世(在位1810年[US034]〜1828年[US052])がマダガスカル島の大部分を征服。イギリスは、フランスに対抗するため、ラダマ1世を援助した
- 1860年代〜1880年代、メリナ王国はイギリスとフランスとの対立を利用し競合させる外交を展開して独立を維持
- 1869年[US093]11月17日スエズ運河開通
- 1875年[US099]イギリスがスエズ運河株式を取得。イギリスにとってのマダガスカルの重要性が低下
- 1890年[US114]7月1日イギリスとドイツ第二帝国がヘルゴランド=ザンジバル条約を締結。イギリスはドイツ第二帝国にザンジバル - Wikipediaにおける権益を認めさせた
- 同年(1890年[US114])イギリスはザンジバルにおける権益を承認させる代わりに、フランス第三共和政のマダガスカル島における権益を認めた
- 1895年[US119]フランス第三共和政によるマダガスカル侵攻開始
- 1896年[US120]8月6日フランス第三共和政がマダガスカルの併合を発表。メリナ王国が滅亡した
つまり、軍隊の近代化、国内統一などを優先してある欧米列強の援助を受けると、列強同士の勢力争いあるいは世界規模の植民地運営政策/外交方針の変更の影響を受けて別の欧米列強に植民地化されると言うことである。
今回の場合だと、イギリス領インド帝国への航路が「喜望峰回り」から「スエズ運河・紅海経由」に変化すると言う事態がマダガスカルの命運を分けたと言うことだ。
1859年[US083]フランス第二帝政とエジプトはスエズ運河の建設を開始し、1869年[US093]11月に開通。地中海から紅海への船舶輸送を可能にした。
1875年[US099]エジプトからスエズ運河会社株式の44%を400万ポンドで取得し、イギリスはスエズ運河会社の筆頭株主になった。
文責:鵄士縦七