イタリアの地政学11:1894.12.15−1896.10.23第1次エチオピア戦争
19世紀後半、アフリカの角(Horn of Africa) 周辺で列強の動きが活発になる。今回はイタリアの地政学として、第1次エチオピア戦争を学ぶ。最初に、クールにザックリまとめる。
イタリア王国は第1次エチオピア戦争(1894年[US118]12月15日〜1896年[US120]10月23日)に敗北し、エチオピア帝国の独立を承認した。
イタリア王国は、1887−1889イタリア・エチオピア戦争(1887年[US111]1月〜1889年[US113]5月2日)に勝利し、ウッチャリ条約を締結してエリトリアを獲得した。
このウッチャリ条約の文言解釈を巡って、「エチオピア帝国はイタリア王国の保護国である」と主張するイタリア王国とそれを否定するエチオピア帝国の間で第1次エチオピア戦争(First Italo-Ethiopian War、1894年[US118]12月15日〜1896年[US120]10月23日)が勃発した。
なんとフランス第三共和政から近代兵器の供与を受けていたエチオピア帝国はイタリア王国を相手に奮戦。Synmeが思うに、本当フランスは信用ならない。ロシアと違って裏切る気満々と言うのではなくて、移り気で「あわよくば」というイメージか。
それはさておき、長期戦に持ち込もうとした前線指揮官をくだらない「列強の見栄」を理由に本国首相が批判した結果、イタリア王国は1896年[US120]3月1日アドワの戦いで決定的な敗北を喫した。
イタリア軍はわずか14,527人であったのに対し、エチオピア軍は12万人を越えていたと推測されている。そして、双方の被害はイタリア軍は約11,000人戦死、エチオピア軍は約10,000人が戦死。イタリア軍はほぼ全滅と言っていい敗戦であった。
もし明治ニッポンが欧州列強と陸戦を行なっていたらこうだったかも、という意味で非常に興味深い。結果論にはなるが、軍の近代化がなされてさえいれば、欧州列強といえども遠征先での戦闘で勝利することは難しいのだ。
Synmeが思うに、植民地化を避け得たか否かは、「軍の近代化」に尽きるということをニッポンと同じようにエチオピア帝国が証明した戦争と言うこともできるのではないか。
エチオピア帝国はこの勝利によって、リベリアを除いてアフリカで唯一の独立国として、第2次エチオピア戦争(1935年[US159]10月3日〜1936年[US160]5月5日)まで存続することになった。
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ちなみにリベリア(リベリア - Wikipedia)はアメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、1847年[US071]7月26日に独立した、アフリカでエチオピアに次いで古い国家である。
文責:鵄士縦七